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連載小説 2020年代という過去<10章 未来から来た理由> #10-1 生きづらい時代

目次

前話 9章 変化 #9-4 わきまえない女

 9月に入ってから、コロナウィルスの第2波は落ち着きを見せ始めていた。8月頭には500人に迫る勢いであった東京の一日の新規感染者数は、9月後半になると100人を切ることも珍しくなくなっていた。
 もう長い間、毎日夕方に発表される感染者数をチェックすることが、麗華の日課になっている。仕事の合間に珈琲を淹れながら携帯でネットニュースを見ていた麗華が純に話しかける。
「今日の感染者数は65人だって。いやあ、長かったけど、ついに終息できるのかな」
 翻訳の作業中だった純は、麗華の声を聞いてタブレットを操作する手を止め、浮かない顔をした。
「終息はまだだよ」
「え?」
「コロナウィルスの感染は何年も続いたはずだから、こんなに早く終息しないと思う。第2波が終わっても、今後もっと大きい波が来るはずだよ」
「あ…そうなんだ」
 麗華は純に聞こえないように無音のため息をついた。そして翻訳作業を進める純を見ながら、ずっと考えていたことを話すことにした。
「ねぇ、純」
 純が再び作業の手を止める。
「なあに?」
「これからコロナがもっと広がるなら、いくら気をつけて生活していても、私たちも感染する可能性があるよね」
「…うん」
「その時、戸籍も保険証も無い純が、ちゃんとした治療を受けられるか、心配なの」
「まあ、うん。…でも気を付けて生活すること以外に、できることは無いかなあ」
「あの、実は一つ考えていたことがあって…記憶喪失のふりをして、この時代で戸籍を作るのはどうだろう?」
「ええ?」
「もちろん、簡単なことじゃないとは思うんだけど、記憶喪失の人が新しく戸籍を作った事例もあるらしいの。実際、純はこの時代にこうやって実在しているんだし、ほら、そうやって仕事までして、この時代の経済の流れの一つになってるし」
「……」
「あ、元の時代に戻ることを諦めろって言ってるわけじゃないよ。でも、もう9ヶ月も経ってるし、いつ戻れるかわからない中で、コロナ以外にも病気になる可能性はあるし」
「わかってる。心配してくれてるんだよね。うん、ちょっと考えてみる。私も調べてみるよ」
「うん。あ、でも、戸籍をとっても、ここで暮らしてね」
 そう言って無垢に笑う麗華を見て、純は自分が恋愛対象として見られていないことを思い知る。
「ねぇ、麗華。私もずっと考えていたことがあるんだけど」
「え? なあに?」
「もしもね、もしも今、願いが一つ叶うなら、私一人だけじゃなくて、麗華を連れて元の時代に戻りたいなって」
「私を?」
「うん。…この時代は麗華にとっては生きづらいと思うの。性別なんて、生まれてきた時の体の種類でしか無いのに、この時代は、いつの間にか作られた性別の役割に囚われすぎてる。麗華はそういうのに不自由を感じてるんじゃないの?」
「うん、まあ…」
「麗華は私の時代に来た方がもっとのびのびと幸せに暮らせると思う。もしかしたら、麗華を助け出すために、誰かが私をここに送り込んだんじゃ無いかって思うことがあるの。あっちの時代で、麗華と暮らせたらもっと楽しいだろうなって」
「…まるでプロポーズみたいだね」
「うん、プロポーズだよ。実現できるのかはわからないけど」
「ふふ、素敵な誘いだな」
 麗華は柔らかく微笑みながら、マグカップの中の珈琲を見つめた。
「あのね、純。きっと私のためを想って言ってくれてるんだろうから、その気持ちは嬉しいんだけど…仮に純の時代に行くかどうかを選んでいいよって言われても、私はこの時代に残るよ」
「それは、家族や友達がいるから?」
「ううん、そういうのとは違うな。…私、純に会えたおかげで変われたと思う。たぶん私だけじゃなくて、尊や夏美さんもそうなんじゃないかな。この時代の考え方に染まってしまっている私たちに対して、純が正論をぶつけてきてくれるおかげで、ハッとさせられることが多いの。私たちが正しいと信じさせられていたものは、違ったのかもしれないって」
「それは生きている時代が悪いんだよ。だからこそ、麗華がここにいるのはもったいないと思う」
「そうかな。私は、もっとポジティブに考えてるよ」
「どういう意味?」
「確かに私から見ると、純の時代は素敵だと思う。でもね、その時代は、私たちのような過去の世代の積み上げで出来たものだと思うの。今、私は女性としてこの時代を生きる中で息苦しさを感じてる。私以外にもそういう人たちがいる。まずは、自分たちの息苦しさに気付いて、少しずつ声をあげて、また気付いて…そういう繰り返しが蓄積されて時代を変えていってるんだよ。それは私たちの過去の世代から続いているし、純の未来の世代にも続いていくと思う」
「まあそうなんだろうけど、それと、麗華が未来に行きたくないっていうのとは何が関係あるの?」
「私、純の時代を作る一人になりたいの」
「……」
 麗華の真っ直ぐな目を見て、純は言葉に詰まった。
「私なりにね、何度も考えていたの。純が私の元にやってきたことに何か理由があるんじゃないかって。こうやって二人で暮らすことは楽しいんだけど、それ以上の何かがあるんじゃないかなって。もしかしたら神様が、何か目的があって純をタイムリップさせたんじゃないかって。それでね、最近、その理由がわかった気がするの」

次話 10章 生きづらい時代 #10 -2 遺伝子を残せなくても


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