2025年のはじめに。
2025年のはじめに
あけましておめでとうございます。
新年早々、風邪を引いてしまい、微熱と寒気で1/1から2日ほど布団にくるまって寝ていた。
すんなり治ったので、私、回復力すごいじゃんなんて思ったりもして。
年末年始は、ずっとひとりで過ごしていた。
以前の私は、家族の繋がりが強まるこの季節がしんどかったが、今年はひとりの年末年始をかなり謳歌できた。
年始には必ず映画館で1本映画を観ると決めていて。
今年は、バクダットカフェを観てきた。
何か特別なことが起きるストーリーではないのだけど、人と関わり合って生きてゆくことの素敵さが感じられる映画だった。
人と関わること
私は人と関わることが苦手で。
これは自分の気持ちを出すことが出来なかった家庭環境の影響がある。自分の気持ちを出した日には父の暴力があったため、そうなるのもいたしかたなかった。
ミステリと言う勿れという映画でね、「子供は乾く前のセメントみたいなものなんですって。落とした物の形が跡になって残る」という主人公・整君の言葉があって。
大人になると「子供の頃のことなんか気にせず生きろよ。」と言われたりもするのだけど、どうしても残る傷があって。子供の頃に経験したことって、大人になったときに大きな影響と反動がある。また、暴力暴言などの嫌な記憶を忘れたくとも、思いがけないフラッシュバックも付いてくる。傷がうずく状態だ。
映画館で、主人公・整君の言葉を聞いたときにね、分かってくれる人がいるんだなってとても救いになった。
これから
過去にとどまってもいたくないので、自分の傷を認めてこれからを歩んでいこうと考えている。
私は、子供の頃のことで今も複雑性PTSDがある。
本当にしんどかったのだけど、親から受けた事柄による傷を自分自身で認めることで、ようやく前を向けるようになってきた気がする。ずっとマイナス地点にいたけど、ようやくゼロ地点に到達した感覚。
残念ながら、機能不全家庭についてはどうしても他者に理解されにくい面がある。例えば、子供の頃に親から虐待を受けていたとしても、「大人になったのだから親を大切にしなくちゃ。」「どんな親でも、子への愛はある。」「ここまで育ったのは親のおかげだ。」「親孝行しないと。」などの言葉をいただいたりする。
これらの言葉は間違いではないと私は思う。
なぜかと言うと、その人の育った環境においての事実(正しさ)と私は捉えるからだ。
ただし、機能不全家庭育ちにそれらの言葉を向けたとたん、傷となってしまう言葉である。こうあるべきだ、こうなるはずだと人に向けることは、時に人を傷付けてしまうことがあると自分自身の経験を通して学んだ。
自分自身が経験した事実と感情、その部分を自分で否定しないことを今は大切にしている。
他者に理解される必要はない。ただ、理解されないことについて、ちょっぴり悲しくもなるのも素直な気持ち。
自分のありのままの気持ちを認めることで少しずつ前に歩めてきているところだ。
平和に生きたいね。みんなで。
自分のありのままの感情を認めて、平和に。