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1人歩行旅

(ざっくりと、メモに近い思い出書きです。)
大学に入って、馴染めなかった始め。あっという間に夏休み。ずっとやってみたかった歩き旅に出ることにした。

高校時代友達や先輩が何百km離れた家まで歩いて帰ったのを見せつけられてから疼いていたのかもしれない。ちなみに、夏休み前gwには試しに50kmくらい歩いてみた。走って往復(100km??)するつもりだったが、案の定1時間半くらい走ってあとは歩いた。

前置きはおしまい、

持ち物はシュラフその他。テントとかスマホは持ってなかったのでなし。
山形を出発し、新潟まで歩き、フェリーで北海道小樽へ。その後友人と落ち合って利尻島で遊んで、札幌で別れて、山形沿岸部まで歩く。山形の島、飛島で一週間お世話になり、その後富山まで歩いてfinという計画を立てた。

無鉄砲にも7月終わり頃、補講期間突入と同時に出発した。

まずは、山形から新潟フェリーターミナルへ

地図も、キャンプ用ガスバーナーも持ってなかったので、知っている道と車用の青い看板(新潟○○kmとか書いてある道路標識)を見ながら出発。食事は、食パンとチョコジャム、夕方の半額弁当を良く食べた。Gwにクロックスで50kmくらい歩いた時に靴擦れで足の裏の皮が悲惨なことになったので、登山靴にした。

最初の方はひたすら歩いた。適当なとこで野宿した。胎内らへんで、土方っぽいおじさんが縁石でタバコを吸っていて、少し話した。「大学は卒業した方がいい、仕事と給料に関わって将来苦労するぞ」とアドバイスをもらった。新発田のスーパーで顔ぐらいあるメロンパンを買ってhappyになった。楽しく歩いた。冒険みたいで楽しかった。すぐ筋肉痛になった気がするけど。新潟のフェリーターミナルまで○○kmと看板に出てきたらへんで、足が限界になった。雨が一気に降った日にアドレナリンでスピード上げて一気に歩いたから疲労して、攣ったのだと思う。「やばい」と思って、信号待ちのとき座ってストレッチしてたら、目の前が交番だった。嫌な予感がしたら、案の定職質された。。人生初の職質。ちょっと怖かった。

新潟について、友達の家に泊めてもらった。アポ無しごめん。4泊5日くらいで新潟まで歩いた気がする。翌日フェリーへ。小樽へ。

小樽、留萌、利尻

フェリーでも食パンをいっぱい食べた。お徳用の普通の食パン4個分くらいのを買って乗船した。小樽では高校の恩師と同流。そのあと友達とも合流、3人で利尻島に遊びに行く予定。留萌の海辺でバーベキューした。堤防から飛び込んだ。夏だけど北海道の海は少しひんやりした気がする。浜の昆布を拾った。利尻島は山頂まで登った。訳あって、友人の靴で登って靴擦れが痛かった。でも、景色は綺麗だった。緑の山から海まで見えた。でも、靴擦れの思い出がでかい。。。

野幌〜函館

2人と別れて野幌の友人と会う。相変わらずマイペースな彼だった。食べ放題に行き満腹。そして、野幌から久しぶりに、歩きだす。

ここから、急に旅っぽくなった。

とりあえず北海道脱出の為に函館に向かう。フェリーで青森に入る為。野幌の住宅地を抜け、徐々に車だけの自然の中を通る。国道230号を行った。野幌はナナカマドの緑の葉が綺麗だった。日差しがあったかかった。羊ヶ丘展望台の横を通ると、頭がなんとなく三浦綾子の世界になっていく。ただひたすら歩いた。たどり着いたとこまで行って寝ればいいから。野幌から歩き始めて何日目かは覚えてないが、山道で突然ジープ?っぽいが横に泊まった。「どこまでいくんだい?」朗らかなおばちゃんが途中まで送るという。「歩きます」と言おうかと思ったが、せっかくなので甘えた。車中色々話した。自分の息子を3歳くらい?のときにもう電車旅に出したこと。息子はモンゴルの民族にハマったこと。自分は羊蹄山に惚れて住み着いたこと。そこに旦那と家を一緒に建てたこと。などなど。彼女の生命力に圧倒され、憧れた。ついでにと家も案内してくれた。家から見上げる羊蹄山、いわゆる蝦夷富士が美しかった。畑に囲まれたポツンポツンと家がある風景はスイスだか、フランスだかの田舎の写真の風景の様だった。今も元気に人と関わる仕事しており、かっこいい、いいなぁと思った。

ニセコくらいでおばちゃんと別れた気がする。なんせ、7年くらい前の話であまり正確な場所を覚えていない。当時の日記も捨ててしまったし。地図もなく、コンビニのロードマップでざっくり道を調べながら歩いている。ニセコがリゾート地として有名くらいは知っていたから、看板に突然ニセコと見たとき、偶然というのか、知っている名前が突然現れたことに大きな感動お覚えた。

そこから、また歩きだす。ずっと同じような道が続く。山を切り開いたスピードの出る道の横はチョウのロードキルが大きいことに気づく。ひらひら飛び出してしまうのだろう。

何日か歩いて、また車が前の方でとまる。軽トラのおじちゃん。「自転車は良く見るが、歩きなんて珍しいなー。」って言いながら、途中まで送ってくれると言う。ありがたい。もう、自分で歩くことにこだわりなどないから、あっさり甘えた。近くにいた地元のおばちゃんが、「あんた良かったねー!」とニコニコしていた。今思えば、丸坊主の半袖短パン、70Lくらいのザックを背負っている大学生って特権もあったのか?いろんなひとが優しくしてくれた。

おっちゃんの車に揺られていたら、国道沿いに「この先左手カフェあり」との変な看板が何百メートル置きに路上に立て掛けてある。と思ってたら、そこに入って行った。

そのおっちゃんはカフェをやっていた。外のテーブルでプリンをご馳走してくれた。おっちゃんはまあ、色々あってここに移住してカフェを始めたらしい。僕はお土産にブルーベリージャムを買った。カフェの姉さんもニコニコしていた。気さくなおっちゃんだった。

ありがとうございますと思いつつ、また歩きだす。おっちゃんが背中に「函館まで」と書いて歩けば良いのでは?と言うのでやってみた。あんま効果なく、だいぶん歩いた。

でも、今度はお父さんくらいの人が「途中までなら」と八雲市くらいまで送ってくれた。会話がちょっとぎこちなくなってしまい申し訳無かったが、公務員の人だったと思う。彼の生き方を教えてくれた、気がする。すみません。僕にはピンとこなくて。。。今思うと少し恥ずかしがり屋の方だったのかもしれない。

八雲からまた、歩きだす。あとは「歩こう」と思い、「函館まで」の背中の紙は取ることにした。大雨にあった。ビチョビチョで夜になった。まだ雨だった。民家に泊めて貰えないか頼んだが、断られる。「そりゃそうだ」びしょびしょの変人なんて泊めたくないないだろう。僕も僕で、このびしょびしょでこの夜をやり過ごす自身が無かった。だから、普段なら絶対しないこと。民家に突撃することを苦肉の策で思いついたのだろう。玄関でも、軒下でもいいと頼んだがダメだった。一軒目で心が折れた。「なんで?」と心で逆ギレした。今思えば情けない。。でもその怒りでその後勢いで何キロか歩いた。怒り恐るべし。小さな橋の下でねた。川の音と、橋を走る車がうるさかった。蚊が雨だが、橋の下はぶゅんぶゅん飛んで痒かった。

起きたら心はさっぱり。なんであんな切羽詰まってたんだろうと思い歩き始めた。夜は寂しくなる。民家の光やテレビの声、窓から人のシルエットが見えると妙に切なくなる。自分が1人だと実感するから。函館までの距離が近くなる。青看板のキロ数が数キロ近くなるごとにワクワクした。体は特に足がボロボロで痛いけど楽しかった。無事フェリーで青森市へ。

そういえば、北海道でもう一つ。夕方山道の国道沿い足が限界に達して、もう寝床を探そうかと思っていた時のこと。目の前で一台の車が泊まる。仲良さそうなカップル。「おにぎり良かったら!」といって窓から手作りおにぎりを2つくれた。「気になって、わざわざ引き返したのよー。頑張って!」とのこと。ちょうどお腹も空いていた。手作りおにぎり、、と言うか、人の温もりなるご飯なんて久しぶり。涙。具材覚えてないけど、めちゃめちゃ美味しかった。明太子と梅干しだったかな、。それもわざわざ引き返してまで。。。嬉しすぎて、その後数キロ元気を取り戻して歩いた。

青森〜山形(酒田)

フェリーでついてひたすら南下して歩いたら、深夜12時ごろに街の真ん中に来てしまった。寝床を見つけるのに大変困った。寝床はやはり暗くなる前じゃないとダメだ。翌日からも南下、青森は唯一歩きだけで超えた。田舎道、りんごの木や国道沿いの農家さんの無人直売所を楽しんだ。安売りトマトが甘くてとても美味しかった。
夜遅く、コンビニで道を確認して後数キロ歩いて泊まろう決めだ時があった。それからいくら歩いても、たまに自転車だけ通る山道になった。仕方なく信じて歩いたら自衛隊の基地の入り口で行き止まりになった。夜10時を廻っていたと思う。泣き泣き、また数キロ引き返した。。。自転車の正体は通り抜けられる道ではなく、自衛隊のお兄さんたちだったと言うことだ。

山道のになり、秋田に入る。秋田の山間部の雰囲気はこじんまりと粛々と淡々と生活している様に見えて、とても美しかった。こちらも淡々と歩いており、気づけば一日誰とも話しておらず、夕方になってすれ違ったおじさんに「こんばんは」と挨拶したのが、1日の唯一の会話になったりして感慨深かった。

北秋田で、おっちゃんが秋田市まで送ってくれた、なんだか陽気な人で一緒にいるだけでなんだか楽しくなったのを覚えている。海沿いの大きな展望台のあるところにおろしてもらう。せっかくなので展望台に登った。車がアリみたいで、ゆっくりと動いていた。家や、人全部がちっちゃくて見とれた。海が綺麗だった。展望台でふらふらしてたら、「どこから来たの?」とおばちゃんに声をかけられた。大きなザックが目立っていたのかも知れない。色々話してくれて、聞いた。そして別れた。その後スーパーでご飯を買いにいく。書い終わって、イートインでゆっくりしてたら、さっきのおばちゃんがてくてく歩いてきた。再会。スポーツドリンク、惣菜その他を「差し入れ。」と言ってくれた。嬉しかった。また出会いがあった。

秋田市から南下。灼熱で暑い日々だった。何日かして、にかほのスーパーのイートインで夕食を食べる。おばあちゃんに話しかけられる。どこから来てどこまで行くなど喋っていたら泊まる場所の話になり、「家に泊まっていけ」とのことだった。ちょっと怖かった。宇宙や予言の話をした。一人暮らしのおばあちゃん。でも、根は優しいのは良くわかった。寂しそうだったけど、元気でいてほしいなと思いながら、朝出発した。

それからも灼熱の中の歩きだった。でも、海が真っ青で綺麗だった。日焼けもじりじり。そしたら、また一台の車が止まった。お母さんくらいの年齢の方。「どこまで行くのー」と言われて、乗ってしまった。酒田の病院まで行くらしくお願いした。面白いお母さんだった。

自分の重い病気の話、子育ての経験、とてもセンチで優しい人で、困っている人をほっとけないと言う。以前にも路上で人を見つけて車に乗せたと言う。「車はぶっとばしちゃうんだよねー!」と小さな車でどんどん追い越してゆく。人のことがほっとけない優しい性格とのギャップが心地よかった。

病院ではパンをご馳走になった。毎月病院に通っているとのこと。「どこに下ろす?」と聞かれて、「急ぎの予定ないのでどこでも大丈夫です」と言うと、「じゃあ、私のうちに泊まりなよっ」ことでまた北上した。。笑。ソーメンを頂いた。リビングのソファでダラダラさせてくれて、洗濯もしてくれた。翌日、旦那さんも一緒にもう一度酒田に向かい下ろしてもらった。申し訳ないのだが、それ以上に嬉しかった。

酒田の先輩に連絡を取る。アポなしで泊めてくれとお願いした。難しいとのこと。「じゃあ野宿しよう」と思っていたら、繋がりのあるパン屋さんを紹介してくれた。言われるままに着いていくと、元気なおばちゃんのやっているパン屋さん。僕の高校の大先輩にあたるらしい。なんなら、父親と知り合いだった。陽気で明るいオーラを振り撒いてる方で、そしたら、気づけば泊めて貰うことになった。笑。床磨きの手伝いをした。

翌日、パン屋の手伝いをしたか覚えてないが、それ以降仲良くなり、大学時代何度か手伝いに行き、遊んでもらう仲になった。(僕より一回り上の夫婦がいてよく遊んでくれた?面倒を見てもらった。)パン屋の手伝いはしたことがなかったので、良く失敗したが、あったかく教えてくれた。パンは美味しかった。

酒田から飛島へ

飛島という、山形唯一の島がある。大学のキャンパスで「島ターン」という、島での生活を無料で一週間体験できる企画があり、興味があって応募していた。今思えば、移住希望者向けの企画で、ただ遊びたい僕が行ったのなんだか申し訳ない。。当時はそんなこと考えていなかった。ただ楽しそうだった。

一週間民宿に泊めてもらって、美味しい海鮮料理。申し訳なさがつのる。でも美味しかった。漁業体験や畑の体験、ぐるっと島を一周したり、刺し子をやっているおばあちゃんの話を聞いたりした。同級生のほとんどが島外にいくなか、親から許しが出ずに、島に残り、観光客向けの出店をやったりと一生懸命島でできることに挑戦したおばあちゃんの話を聞いた。頭も良くて尚更、島外に行きたかったらしい。今は植物をラミネートとしたり、畑をしたり、畑の納屋から出て来た蜂に襲われかけながらニコニコしていた。笑。

「島ターン」主催の飛島合同会社の方々はよく可愛いがってくれた。島出身の方、移住した方、それぞれの想いを聞けた。夜光虫の海を泳いだ。綺麗で楽しかった。「今度は海の監視員のバイトしに来な」と言われたが結局行けず残念だった。

飛島から酒田港まではフェリーで1時間?くらいのかかる。島でお世話になった方々に島の港から見送られ、少しずつ人影が見えなくなり、島が遠くなっていくのは、まるで新しい世界に行くような寂しさがあった。
そういえば「島ターン」の最中、僕と同じように移住を考えない普通の大学生も一緒に参加していて救われた。。

酒田に戻って、パン屋さんにまた泊めてもらう。パン屋を紹介してくれた先輩の家にもお邪魔さた。先輩の家族もなかなかワイルドで面白かった。海外、特にヨーロッパの話を聞いたりして、楽しかった。おっきなニンニクをパン屋に持って行ってと渡された。

山形〜新潟

翌日パン屋さん温海の道の駅まで、送ってもらう。みんなみんな、送ってくれて優しすぎる。。お昼を食べてまた、久しぶりに歩き出した。体の疲れはもうなかった。

新潟を目指す。「久しぶりに歩きだな」と思いつつ、もはや、車が泊まるのを期待するような歩きになってしまった。近くに車が停車すると期待してしまう。でも「期待してないよ」と言うふうに知らんぷりで横を通り過ぎる。複雑な気持ち。そして、田んぼ道の直線でついに止まってくれた。笑。

2人中年の女性。日蓮宗関係の集会に行くとのこと。日蓮宗では、力になれるときは人を助けるような教えがあるらしい。集会もついて行った。よく分からなかったが、僕は車に乗せてくれた2人はいい人だと思ったからそれでいいんだと思う。その後新潟駅におろしてくれた。飛島のお土産をあげたら「むしろ私たちがお得ね」と喜んでくれた。

新潟では高校の友達と3人あった。気心が知れてて楽しかった。

新潟から南下する。やっぱり、当たり前だか、これだけ人と会ったり別れたりすると、別れるってこと、別れたあとにまた1人で歩きだすのとっても寂しいし、切ない。でも、「出会ったんだ」と言うことを痛烈に実感する。弥彦らへんまでくる。温泉を見つける。閉店時間間際で当たりは真っ黒。「疲れてるし入りたいけど、お金かかる」とか考えていると後ろからおばちゃん「入らないのー、せっかくだから、入って来な、奢る奢る」とのこと。また甘えてしまった。歩きは基本風呂に入らないから物凄く温泉は気持ちいい。最後に入り口で、お礼を行って別れた。
翌日また歩く。海沿いに行こうと思い、山沿いの川道を行く。そしたら、「あんた」と農作業服のおばちゃんに声をかけられる。「私もあんたを応援したかったんよ」とのこと。?なんと、昨日の温泉の受付の方だった!昨日温泉に行ったとき、温泉代金を奢ってくれたおばさんを待つために風呂から出たあと、受付の人にも見失わないように協力してもらっていたのだ。
驚きの再会。パンと飲み物をもらった。ありがたかった。一瞬の出会いに感謝そして、感動した。

寺泊を越え、笹川流れにくる。街並みが綺麗で、山に登ってみると、街全体を見渡せる広場に出た。ぼーっと海と街を見る。佐渡も綺麗に浮かんでいた。隣のベンチにもおばさんがいた。ここは良寛さんの生まれた土地らしい。坊さん。困ったことがあったら、彼女はここに来て相談すると言っていた。そういうこともあるんだと思った。人に相談できないことを相談できる、大切な場所なんだと思った。そう言う場所があることがいいと思った。この場所が僕にとっても少し特別になった。上越の方に行くらしく、方向が一緒でまたまた、乗せてくださった。このありがたさが当たり前になってきてる気がする。ありがたいことだ。話を聞きながら、海沿いを車で走った。そしたら、僕の友達の家の近く(近くといっても5km以上はあるが)らしいことがわかる。なんなら、農家をしている友達の親のことを少し知っているらしい。思いきって、友達に連絡した。道の駅らしきとこで、お礼をいって、友達の車をまった。友達のお父さんが迎えに来てくれた。山道をどんどん行く。友達の家は山奥の集落3.4件くらいの場所にあった。

遊びにいったら、一週間くらい手伝いを、していくことになった。田んぼの稲刈りの手伝い。ブルーベリーの剪定。草むしり等。土いじりが好きは僕はとっても楽しかった。でも、山奥の寒さのせいか、午前中はよく頭が痛かった。友達の姉妹とも遊んだ。山に暮らすとはこう言うことかと思った。静かででも、あったかくて、騒がしさのない生活があった。お別れのとき、お父さんはギターで歌ってくれて嬉しかった。カタコトでみんなで笑った。お母さんが直江津くらいまで送ってくれた。自分の子供によって与えられた価値観の話が印象深かった。

新潟〜富山

また歩く。今更なのだが、夕方の日が落ちてゆき、空がぼんやりして赤っぽくなってくるととても切ない気持ちになって、1人が怖くなる。旅中何度も泣いた。今日寝るところがうまく見つからないんじゃないかと不安になる。歩くのが辛くて、もうやめようかと何度も思う。泣きながら歌を歌って凌いだ夕方の時間が何度もある。物凄く切なくて、怖くて、でもその分おかしいくらいに人が切なくなる。家族や友達に、今回出会った人々に会いたくなった。でも、歯を食いしばった。なぜだろう。分からない。特に新潟は何度も諦めようと思った。ゴールが見えてきてからなのか、直江津からは1番辛かった。

でも、朝になると体がボロボロなのは置いて置いて、気持ちは元気になるから不思議だ。直江津の方は、昔鉄道が走っていたところを利用した、自転車歩行者用のトンネルがいっぱいあって楽しかった。親知らず子知らずの岸壁沿いの国道のトンネル道はただだ怖かった。ひたすら集中して歩いた。トラックくのでかい音が通り過ぎて、トラックの風に巻き込まれてゆらつく。車の方々もこんなところに歩行者がいて怖かったと思う。すみません。

そして何日か歩いてとうとう富山県に入った。夕方黒部の方につく。富山湾の対岸に夕陽が沈んでいく。地元だと思われる街並みの電気がポツンポツンと光って見えた。ゴールが見えて思わず泣いた。もう少し、よく歩いた(いや、半分くらい車だが、、)と思った。地元のおっちゃんと海を見ながら少し話した。

富山県は基本海沿いを歩いた、蜃気楼が見たかったけど、見えなかった。どんどんの街が近づいてくるのが海越しに見えてワクワクした。

そしてとうとう、知っている道にでた。懐かして、嬉しくて、ペースが上がってほとんど止まらず一気にすすんだ。

実家が見えた。玄関を開けた。「おかえりー。」

僕はやり切ったこと色んな出会いがあったことに、大感動しているが、家族はいたって普通。話を聞きたいとかもあんまりなくて、なんか冷めちゃったけど、、、そんなもんか。

出発から一カ月半たって、歩き旅は終わった。

ここまで、ダラダラ書いてきたが、これが僕の忘れられない旅である。7.8年くらいまえだから、時系列や細かいことに勘違いもあるかも知れない。結局、工程の半分も歩かなかったかも知れない。。でも、大きな感動があった。知らない人との出会い。今回投稿企画をみつけ、文をして、ありありと蘇ってきた。それは、シンプルに人の優しさ。それだけ。それ以外はほとんどどうでもいい。そして、自分は人に出会いたいと言うこと。「歩けるだけ歩いてみたい」ただ浮かんだこの願いがこんなにも人と出会わせてくれた。この時から繋がって今もなお続いている関係もある。拙い文ではあるが、人との繋がりの感動が伝わるだろうか。たった、一瞬の出会いで物凄く心が豊かになる。人の温かさに触れる。包まれる。書ききれないこともたくさんある。1人を実感し、そこで、出会うから分かったのかも知れない。

その後何度も歩き旅に出た。コロナや年齢、スマホ利用などで直接的な出会いは、旅の中では減っている。あの時の旅はある意味、幻で奇跡だった気もする。でも、そんな世界もあることが確かに自分を支えている。最近、ゆっくり海外旅行に行こうと思いつつ、なかなか重い腰が上がらなかった。でも、この経験が、また背中を押そうとしている気がする。まだ、何かを探したくて、誰かに出会いたいのだと思う。

追伸、以降ヒッチハイクを見つけたら、絶対のせてあげたい。もはや義務と思っている。

が、まだ出会っていない。。。

※時間がなくて、殴り書きの推敲もよくしてない慌てた文です。

#忘れられない旅

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