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青の連想 :恋、絵、色、詩 など 人生は理解すべきものにあらず

はじめに「青」について

英語で「青」は  “ blue ” を典型に、inndigo、navy cyan、 aqua など数多くあるように、日本語でも紺色、藍色、空色のように、たくさんの青系色の表記名があります。

そこで、この記事では、日本語で示す「藍色=少し緑がかった青」、「紺色=少し紫がかった濃い青」中心に、それに似た青色系全体を「青」とまとめて表記しています。

「インディゴの恋人」

もう7年近く前に、NHK・BSで岡山発地域ドラマ「インディゴの恋人」を観ました。倉敷市を舞台に、デニム加工の地元職人と、市内美術館の企画で滞在しながら絵を描く女性画家との交流が描かれていました。
「インディゴ=藍色」という色が、お互いにとって大事な意味を持っており、画家の秘められた過去がドラマの大きな核となっていて、配役、脚本、映像など、総合的にとても良い出来栄えだったと思います。

画家と学芸員

女優(美波)が画家の役として「絵」を描くシーンも何度か出てきますが、ずっと「藍色」にこだわって、やっと完成に近づいた絵を、美術館の担当学芸員(片岡鶴太郎)に見せるシーンがあります。その「最初の絵」が画面に現れたとき、私はとても魅かれるものを感じました。
ところが学芸員は、「これでは当美術館に収蔵することはできません。あなたも何かが足りないということはわかっておられるのでは?」のような印象批評を言います。そこを起点にドラマは、画家の過去へと向かい、・・そして結末は、画家が作り直した「完成作」が画面に登場し、本人や学芸員、デニム職人も満足している様子を描いて終わりでした。

ドラマとしては当然の流れなのでしょうが、それとは全く関係なしに、私個人の「好み」だけで言うなら、藍色を基調にした「最初の絵」に強く引き込まれました。よく見れば、市民文化祭などで見かけるような、テーマは切実だけど技巧にちょっと拙さが残る印象はありますが、画家の抱える「苦悩の色」は伝わってきます。それに対し、作り直した完成作には「当り前の幸せ色」にあふれているだけで共感できませんでした。

「最初の絵」と主演女優の記念ポーズ


絵に描かれた青

絵画や写真、映像でも、藍色や紺色などの色合いにこだわった作品は時おり見かけます。私自身の作品も「深い紺色」を基調にしたものが多いです。

ここで、私の好きな日本の版画家の中から、「青さ」を感じる作品を少し紹介します。

二見彰一「ながい夜」
前田 常作「須弥山マンダラ図シリーズ」
司修「漂泊者の歌」

司修氏の絵はモノクロームなのですが、絵柄の雰囲気に「青」を感じます。


次は、私の作品「深いまなざし 光る波」

深いまなざし 光る波
created by  rilusky E    2008


海はなぜ青く見えるのか?

ネットで “ 色彩 ” と検索すると次のようなことがわかりました:

色を見るためには絶対必要なのは「光」であり、光は「電磁波」という物質の1種である。
この光には、紫外線や赤外線のような、さまざまな色合いの「波長」を持った光が含まれており、すべてが混在すると透明になるという光の性質のため、人間の目では可視光以外の光を区別して見ることはできない。
色には、自然の太陽や炎、人工の蛍光灯やパソコン画面のように、人間が見ることのできる波長の光を自ら発する色と、自らは光を発せずに物に光が反射して見える色がある。ちなみに、光は黒に吸収され、光の持つエネルギーは熱に変化するので、真夏の黒服などは熱くなりやすい。
自ら光を出している物質は少なく、ほとんどの物の色は太陽の光や蛍光灯の光を反射あるいは吸収して、反射された光のほうを人間が見て、それをその物の色として認識している。

従って、「海が青く見える」のは、海という物質に太陽の光が当たり、吸収されずに反射されたほうの光を目がとらえ、人間の脳の働きで「この色は青」と知覚し、「海は青い」と認識する。

以上のように、科学的に色彩を学ぶと「なるほど!」と言わざるを得ません。ときおり、色覚異常や動物との色彩認識の違いなどを耳にしますが、
私たち人間が長い歴史の中で培ってきた色彩への「文化的こだわり」がちょっと虚しくも思えてしまいました。

詩で感じる青

さて、私たち人間の視覚による色彩認識のことはよく納得できましたが、色に対する印象についてはどうなのでしょうか。

よく、カラーセラピーなどの表記を目にしますが、やはり、個人差はあるとしても、人間は色を見て何らかの感情や印象を受け取っているようです、ブルーといえば「静穏、冷静、憂鬱」などを連想してしまうように。

たとえば、次に紹介する詩はいかがでしょうか:

誰か われに告げうる人ありや
いずこに わがいのち たどりゆくかを
われは げに 嵐の中にうちただよい
池をすみかとなす 波にあらずや
あるはまた 蒼白くほのかに氷る
早春の白樺にあらずや

(旧岩波文庫 リルケ詩集 星野慎一訳 )

これは、ドイツの近代詩人リルケの初期詩集からの引用です。内容から受ける印象をあえて色彩にたとえると、不安と孤独そしてうっすらと願望の混じった「ブルー」が基本色です。

具体的には、使用された言葉の「池を棲み家となす波」は深く暗い藍色、「蒼白く氷る」や「早春の白樺」は青味のあるグレー混じりの白色の情景がイメージとなってが浮かびあがってくる感じで、とても映像的な言葉使いの詩だと思います。

最後に

「青」からの連想として、いろいろ思うところを恣意的に書き連ねたわけですが、結局、「私の人生、私の求めるアート」は今後、どういう色合いに彩られてゆくのか、・・と、思い惑うばかりで、無為に過ごしてしまいがちな日々なのです。

それで、やっぱり、リルケのこんな言葉も自分に言い聞かせるように引用したくなるのです・・・、

人生は理解すべきものにあらず 
もし理解せんとせば 
祝祭のごときものとならん 
日ごと あるがままにあらしめよ          

口語訳すると:

人生は理解すべきものではないのです
もし理解したいなら
祝祭のようなものとなるでしょう
日々を思うがままに過ごせばよいのです

この詩の色合いは、明るく澄んだ「空色=スカイブルー」でしょう・・。