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幼少期は現在に投影されているのか ~ 遠くて近い「あの頃」に想う

あの人、知ってるけど、誰だったかな・・

たとえば、十数年ぶりに生まれ育った故郷の通りを歩いていて、向こうから来た人物とすれ違うまでお互いをついつい見つめ続けてしまった、という経験がないでしょうか。「誰だったのだろう、知っている人物なのだが、・・いつの頃だろう、きっと、小学校のときだったはず・・」のような、感じです。

お互いの外見はかなり変わってしまっているのですが、どこかその輪郭や表情から醸し出される雰囲気に、昔よく知っていた「あの子(男女は問わず)」の面影が浮かび上がってくる、そのような出会い方です。もちろん、「その人」と過去にどのような思い出があったかで、受ける印象も違うでしょうが・・。

人の本質は変えにくいのでは?

私は、自分自身については、こう思うのです、「自分は子供の頃からちっとも変わってないな」と。
見た目だけの変化だけでなく、「社会における個人」として心身ともに成長してゆく過程においても、人はどんどん変わってゆくものです。
しかし、その人を「その人たらしめる本質部分」、つまり、幼年期から幼少期にかけて培われる基本人格や気質あるいは性格の傾向は、もう変えにくいのでは、と。

極端に言えば、臆病な日和見主義者、嘘つきの卑怯者は大人になってもどこかでやっぱりそういう逃げ方をする、寛容で誠実な人格者や正義感の強い道徳家はやはりそのような行い方をする、ということです。

補足:幼少期とはいつ頃
幼児期から学童期=1歳 ~ 12歳までの子どもをイメージしますが、法律用語ではないので具体的な範囲は決まっていません。「思春期あるいは第二次性徴の始まる前まで」など、それぞれの成長に合わせて区切る考え方もあります。


それとも、人は変われるのか?

最近は異色の俳優として活躍しているダンサーの田中泯さんが、その昔、大津市の中学生いじめ自殺事件に関して朝日新聞に寄せた記事があり、その中の一節に次のような言葉がありました:

大人だって、かつては子供だったんだ。
君だって大人になるんだ。
ある日突然、大人になるわけじゃない。
今の君の生き方が大人の君をつくるんだ。

今、君がいじめを見て見ぬふりをしているのなら、
大人になった君もきっと傍観者だ。
それでいいのか。

協調性ばかり求められる世の中だけど、
僕は孤独が大事だと思う。
誰にも見られていない時にこそ、
本当の自分がいるんだ。

ダンサー 田中泯さん


特に、「今の君の生き方が大人の君をつくるんだ。」部分は、身に沁みるものがあります。幼年期から少年少女期にかけて経験することが、その後の人生の在り様の基盤となるのではと思うからです。

私個人のことで言えば、おそらく小学3年あたりから、学校や家などの場所そして自分というものに対してなぜか仮住まい、仮の姿のような漠然とした遊離感があって、「ここではないどこか」・「自分ではない誰か」を心の奥では探し求めているような気持ちがずっと潜み続けていました。

おそらく幼いがゆえの、これから先の長い人生への不安と期待そして夢などが錯綜した心境だったのでは、と思います。

現在はさすがにもう、そのような「漠然とした遊離感」は全く感じません。そのかわりに、いつか必ず訪れる「死」を考え始めています。



7年ごとの記録「世界の7歳」“ SEVEN UP! ”

もうずいぶん昔、90年代にNHKで見たドキュメント「世界の7歳」のことを思い返しました。ウィキペディアによれば、1964年に英国のテレビ局が制作したドキュメンタリー「seven up! 」だとわかり、次のように説明されています:

1964年に英国で放送された『seven up!』

ロンドン周辺やリヴァプールなど、英国に住む7歳の子供たちを集めてインタビューし、7歳までの生育環境が、どれだけ彼らの成長に影響を与えるかを浮き彫りにし、階級格差がこの段階で固定化されてしまうことを立証しようとしたドキュメンタリーであった。
その後、同じ出演者に、7年ごとに取材を繰り返すことで、彼らの人生がどれだけ幼少時の生育環境に影響されるか、テレビに出演し続けることが彼らの生き様にどのような影響を与えているかなどを探る上で、心理学、社会学、教育学など様々な見地から興味深い番組となっている。

なるほど、このように非常に分析的で冷静な興味から作られた番組だったことがわかりました。このような番組作りは他国のメディアにも刺激を与えたらしく、日本でもNHKが同じような手法で番組を制作しています。なお、この番組は、最終的に2020年「63歳になりました」まで出演者たちの追跡調査をして作り続けられました。

補足:NHKで放映
「7年ごとの記録 イギリス 63歳になりました」という番組名で2021年に45分3回にわたり放映されました。


ある少年の変貌ぶりにショックを受ける

私がここで述べたいことは、そんな制作背景の裏話ではなく、個人的な印象と思いです。
当時、私が見たその番組「世界の7歳」では、裕福な家庭から貧しい家庭の子、成長してエリート弁護士や無職者など、何人かの子供たちが登場し、確かにその後の成長をずっと追いかけた内容でした。幼年期・少年少女期は、どの子も子供らしい無邪気さと可愛いらしさにあふれていたのですが、青年になってからその印象がかなり変わるのです。

皆一様に、社会人らしい、良識のある平凡さと抑制心のようなものが身についています。ところがニールという男の子だけ、その青年期の姿が他と違っていたのです。定職につかず、あちこちを放浪しているような生活を送っており、言葉少なく落ち着かず、うつろな表情だったのです。彼の子供時代の姿が無邪気でとても明るかっただけに、そのあまりの落差にショックを受けました。番組もそのような彼に多く時間をかけて取材していました。


彼は私であり、あなただったのでは

今思えば、私の受けたショックとは、ニールという男の子の姿に自分を重ねようとしたからだと思います。無知だからこそ無邪気でいられた自分の子供時代はとうの昔に終わってしまった、今はこうしてあれこれ考え悩みながらも社会人として何とか生きている、そういう落差のある自分と思わず重ねてしまったのだと思います。

記憶の遠いかなたに懐かしい自分がいるけれども、人は時とともに変わりゆくもの、それに抗うことはできないと・・・。

番組では、子供たちが63歳になるまで根気よく取材が行われ続け、印象に残っていたニール少年は、その後、放浪癖のホームレスから市議会議員になり、結婚と離婚も経験、63歳現在はフランスに住まいを持ち、地区教会で奉仕活動もしている様子が映されていました。

最後に

では、最初の問いかけ、幼少期は現在に投影されているのでしょうか?

番組に登場したニールという実在人物の半生を観察したわけですが、彼の心の内までを覗いたわけではありません。市議会議員を辞して、再び放浪の旅に出ていたのかもしれません。

ただ、自分自身を振り返っても、小中高のある時期に共有の時間を過ごし、青年期以降にも会う機会のあった友人・知人たちのことを思い返すと、幼少期の「あの頃」の、彼らの生きる姿=基本姿勢のようなものは、その後もほぼそのまま維持され続けている、と思える人物が多いです。

すっかり変わったな、という印象は少なくとも久しぶりに会った時には感じません。相手によって自分をどう見せるかは微妙に違うという側面はありますが、旧友との再会では無警戒に昔の自分に戻れるものでしょう。

つまり、私たちの幼少期に形成された基本人格や気質・性格の傾向は、大人となる青年期以降になっても、良かれ悪しかれ、潜在的にも引き継がれて投影されている、と思うのです。


だから、幼少期にボーッとしていてはいけない、いけなかったのです!

強圧的で嘘つきの担任の先生に対してはちゃんと文句を言って批判してよかったのです、
仲間外れにされたクラスメートを自分たちのグループに入れて仲良くしてよかったのです、
意地悪をする生徒なんか軽蔑して無視すればよかったのです(それでダメなら喧嘩してよかったのです)、
退屈な授業など受けないで裏山に登り、青空を眺めては好きな本を読んでよかったのです、
悪い仲間たちと寂しいからつながっておこうなんて気持ちは捨ててよかったのです、
いやな親から我慢して愛情をもらおうなんて思わず、生活費だけもらってよかったのです、

思った通りにやることは、けっこう難しいけど、やりがいはあるのです!