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特に言いたいことがないがアウトプットが迫っている1月28日現在の考え

 稀有な人ですね、休日にこんな変なおじさんと一緒にいてくれるなんて。今日とある展示の看視員をしていたときに、展示の作者に言われた。この作者は二週間の展示期間中ずっと、毎日午前十時から午後五時まで在廊して来場者対応や展示室の看視をしている。私は週末だけボランティアでそのお手伝いをしている。今日は展示が始まって三日目の日曜日。展示は現代アートのインスタレーションで、決して分かりやすいとはいえない概念的な作品である。一見何なんだかよく分からない現代アート、と作者本人も言っていた。暗い部屋で六つの作品が順番に照らし出される。映像作品もあれば、オブジェや体験型の作品もある。来場者はまばらで、一時間に数名のペースである。なのでお手伝いも全く忙しくなく、大半の時間を作者との雑談で過ごしている。来場者がいる間は展示室の入口付近から見守るが、そこはとても冷え込む。展示室のとなりに控室では暖房をきかせており、来場者がいない間は控室で待機している。来場者が来たら立ち上がって案内をする。
 ご来場ありがとうございます。展示のご案内をいたします。暗い展示室のなかで六つの作品に順番に光があたるようになっており、順番にみていただいて十八分ほどで一周するようになっています。こちらのiPadに六つの作品の説明が書いてありますので、読みながら進んでください。撮影やSNSへの投稿は問題ないのですが、作品にはお手を触れないようにお願いいたします。ただ、一つだけ体験型の作品がありますので、部屋の左奥のほうのものですが、そちらはぜひ体験してみてください。いまちょうど〇番の作品が照らされています。順番に六番までいったら、また一番に戻るようになっています。それではごゆっくり。
 昨年の11月ごろから、この展示室を有するセンターで週末ボランティアをするようになった。きっかけは芸術的なるものがいかに立ち現れるか、という問いを持ってフィールドワークをしてみようと思ったことだった。センターでは芸術作品の展覧会だけでなく、マルシェや読書会などさまざまなワークショップが毎週行われる。色々なイベントにお手伝いとして参加しながら、人が芸術を見出したり体験したりする状況に出会いたいと思ったのだった。以降毎月数回、ワークショップの運営をお手伝いしている。会場設営や来場者受付、アーカイブのための写真撮影、片付け、といった作業の人員として使ってもらっている。
 当初期待していた通り、人が芸術と触れる瞬間に立ち会うことは何度かあった。そこで感じられたのは、芸術的なる体験が状況に依存しており、その状況は計画的というより偶発的に成立しているということだった。例えば、実際には両面テープで板がテーブルに貼り付けられているだけなのに、鑑賞会という名目で集団でその作品を見てみると、きっとこのテーブルは作品専用の台座で、作品とデーブルは一体になっているのだろうといった見方が提示される。芸術鑑賞をする場という認識が、作品の意匠や工夫を増強することがあった。また、読書会という場で感想を共有することで、日常会話よりも高尚な対話をしているという満足感が場に共有される現象に居合わせる機会もあった。面白いことに、こうした芸術体験のリアリティと出会うと同時に、私のなかで「だからなんだ」という気持ちが育っていった。芸術なるものの偶有性を暴露したところで、だからなんだというのだ。あらゆる現象は偶然なのであって、当たり前ではないか。段々と、フィールドワークで見聞きしたことから、別に何も言いたいことがないという感覚が大きくなってゆく。
 先ほど、このフィールドワークを行うきっかけになったゼミの集会で、三月に予定されている展示会についての相談会があった。三月の展示会は、フィールドワークから何かしらを表現する場になる。フィールドで起きていることの何を表現すると、フィールド外の人にとって面白いのか、私にはさっぱり分からなかった。その分からなさを共有してみてふと、フィールドにおいて面白がられているのは私自身かもしれない、と感じ言葉にしてみた。平日サラリーマンとして賃金労働をして、週末には冷え込む展示室で看視員として無賃労働するのは、ボランティアを受け入れてくださるセンターのみなさまや展示の作者にとって「稀有な」存在なようだ。そんな私がフィールドでどのように見られており、面白がられているのか表現してみるのも、面白いのかもしれない。
 フィールドと関係を結ぶと、フィールドのなかにあるような気がしていた面白さは、私にとって段々と面白くなくなってゆく。それは面白さの内部に入りながら、その構成要素となっていくことなのかもしれない。フィールドにおける変な奴として自分自身が面白がられることなのかもしれない。


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