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神田紅「与三郎殺し」【講談書き起こし】

 講談はどれぐらいの文字数をしゃべるのかなと気になったので、NHKで放送された神田紅お師匠さまの「与三郎殺し」を書き起こしてみました。27分30秒の講談で、ざっくり7850字ほどになりました(書き起こした文から「〈ペシ〉」と「(ルビ)」を取ってカウントしました)。
 講談といえば、講談師さんの前には机があって、それをペシペシ叩いて調子を取りながら、歴史物なぞが語られるというのがその形ですね。あの机は釈台(シャクダイ)というそうです。釈台の上には、講談師さんの右手側に釈台をペシペシ叩く棒が置いてあります。張扇(ハリオウギ)というそうです。あと、左手側には扇子(センス)が置いてありますね。張扇を2回たたくときと1回のとき、扇子も一緒に叩くときなどとバリエーションがいろいろあるのですが、ここではざっくり「〈ペシペシ〉」「〈ペシ〉」としました。


〈ペシペシ〉

 歌舞伎で有名な「与話情浮名横櫛(ヨワナサケウキナノヨコグシ)」、「お富与三郎」というお噺は、講談では「依田の雁金(ヨダノカリガネ)」と申しまして、最後に依田豊前守(ヨダブゼンノカミ)がお裁きをなさる連続講談でございます。
〈ペシ〉
 お富さんという人は、元深川の芸者で、これを身請けいたしましたのが木更津の大親分で赤馬源左衛門。その源左衛門の留守中に、いい仲になった相手が与三郎でございます。
〈ペシ〉
 与三郎は、日本橋の伊豆屋喜兵衛、べっ甲問屋の一人息子。役者息子、業平息子と言われるほどのいい男でございましたが、江戸にいられない出来事に遭遇し、おじさんが木更津で質屋をしておりますので、そこにしばらく身を潜めておりましたところ、お富さんと出会ってしまいます。
〈ペシ〉
 目と目が合ったその瞬間に、恋風が身にしみたとでも申しましょうか。二人は人目を忍ぶ仲となってしまいます。
〈ペシ〉
 このことを子分のみるくいの松五郎から聞かされた赤馬の親分は、
「何、そりゃ本当だろうな?」
「本当だかどうだか、手証、捕めえたらどうです? 手証」
「よおし、分かった」
 出かけていくふりをして、真夜中、お富と与三郎が部屋の中で蝶々喃々(チョウチョウナンナン)と語らっているときに、戻ってまいります。
〈ペシ〉
「野郎、ふざけやがって!」
 雨戸に体をドーンとぶつけたからたまりません。雨戸が外れる、中へ倒れると同時に、赤馬源左衛門の体が転がり込んできたので、驚いたのはお富さんです。
〈ペシ〉
「与三(ヨサ)さん、逃げてー!」
 もちろん与三郎、逃げていこうとしたところを、「待て、こいつ」と捕まって、その後、体中34カ所の刀傷をつけられたんです。
〈ペシ〉
 だから、「切られの与三」。生まれつき切られていたわけではございません。まるで血だるまのようになってしまったものですから、お富さんは見ていられない。隙をうかがって、バラバラバラバラーッと駆け出してゆきました。
〈ペシ〉
「松! お富、逃がすな!」
「へえ、がってんだい! ・・・あっ、姐(アネ)さん、姐さん、そこは行き止まり。その向こうは崖ですぜー!」
 みるくいの松五郎が止めたんですけれども、「どうせ殺されるんだったら、三途の川とやらで落ち合おう」、そう思ったんでしょうか。南無阿弥陀仏も口のうち、白泡立った木更津の海を目がけて、我と我が体を真っ逆さま、ドップーーン!
 だから、「♪死んだはずだよ、お富さん」。歌の文句で有名でございます。
〈ペシペシ〉
 死んだはずだよ、お富さん。しかし、九死に一生を得まして、奇跡的に助かっちゃうんです。
 一方の与三郎はと申しますと、これをつづらに入れまして、
「おい、あいや。おめえの甥っ子、質ぐさ持ってきたぜ。いくらで買う?」
 おじさん、つづら開けてびっくり仰天。甥っ子が血だらけでございますから、「あっ、はっ、あの、これでご勘弁くださいまし」と二百両という大金に換えまして、これを懐手に、赤馬源左衛門、みるくいの松五郎と一緒に、いずれえかへ逐電してしまいました。

〈ペシ〉

 さて、それから3年の年月が経ちました。5月28日、両国の川開きの当日でございます。
〈ペシ〉
 与三郎は傷を隠すために、ほっかむりをして、玄治店(ゲンヤダナ)の辺りをうろついておりましたが、そのときに、向こうから木更津で死んだと聞かされたお富がやって来るではございませんか。
〈ペシ〉
 黒板塀に見越しの松、その内に入っていく。そのあとから与三郎も入ってまいります。
「御新造さんえ、お富さんえ、いやさ、お富。久しぶりだなあ」
「そういうお前は・・・」
「与三郎だ。お主は、俺を見忘れたかぁ? しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのをどう取り留めてか木更津から、巡る月日の三年越し(ミトセゴシ)、江戸の親には勘当され、よんどころなく鎌倉の、谷七郷(ヤツシチゴウ)を食い詰めても、面(ツラ)に受けたる看板の、疵がもっけの幸い(セイウェエ)に、切られの与三(ヨソウ)と異名をとり、押借り(オシガリ)強請(ユスリ)を習おうより、慣れた時代(ジデエ)のげんじぃだぁなぁ~(源氏店)!」(見得を切る)

 「紅!」誰も声をかけてくれない! 〈ペシペシ〉

 歌舞伎で有名な玄治店の場面でございます。3年ぶりに2人は、この玄治店で再会したんですけれども、再び夫婦同様になりまして、一緒に暮らすようになる。朱に交われば赤くなるの例えどおり、
「ねえ、与三さん。私がきっかけを作るからさ、おまえ、その傷を生かして、押借り、強請、やってごらんよ」
「よし、分かった」
 ということになって、どんどん悪の道に踏み込んで、とうとう後ろに手が回ってしまいます。
〈ペシ〉
 つまり、2人とも捕まってしまった。
〈ペシ〉
 お富さんのほうは、奴女郎(ヤッコジョロウ)になります。この奴女郎と申しますのは、奴刑(ヤッコケイ)というのがございまして、女の罪人の場合は、身元引受人がなかったら、まあ、吉原で3年の年季奉公ということで、これを奴女郎と申します。
〈ペシ〉
 一方の与三郎のほうはと申しますと、牢に入れられてしまった。しょんぼりとしておりますのを、たまたま牢名主(ロウナヌシ)の観音久次親分(カンノンキュウジオヤブン)というのがチラッと見て、「おう、根っからの悪じゃあなさそうだなぁ。どっかの若旦那か。かえぇそうになあ」、こう思って、何かと目をかけてくれました。
〈ペシ〉
 と、こうするうちに、この与三郎があみだくじを引きまして、佐渡の金山送りということになりました。
〈ペシ〉
 心配をいたしました観音久次が、「与三郎、くれぐれも言っとくがな、島抜けしちゃあなんねえぞ。金山の仕事はな、きたねえ水をかき出す、それはそれは苦役だ。だがな、人足(ニンソク)の頭(カシラ)に俺の子分がいるから、手紙を書いてやる。目をかけてもらえ。絶対に、島抜けしちゃあなんねえぞ! 分かったな!」
「はい。かしこまりました」
 励まされ、佐渡島(サドガシマ)へとやって参ります。
〈ペシ〉
 しかし、そのころの佐渡はと申しますと、金山に人足として働いているのは罪人たちでございまして、飢えと寒さに、なんと、3年も生きることができなかったと申します。
〈ペシ〉
 与三郎は、月を見上げながら考えました。
「ああ、人足の頭に目をかけてもらっても、俺はもう駄目だ。この体じゃあ持たねえ。どうせ死ぬんだったら、もう一度、シャバに帰りてえなあ。そうして、両親にわびを言いたい。そして、あの惚れたお富の顔を一目見て、それから・・・」と思い詰め、二人の悪党が島抜けをする、これを頼み込んで、自分も一緒に島抜けをいたしました。
〈ペシ〉
 命からがら、江戸表(エドオモテ)までやってまいります。
〈ペシ〉
 途中の大宮の宿で、実は自分を傷だらけにした赤馬源左衛門とその子分のみるくいの松五郎と出会っておりますが、この話は後のほうに申し上げることといたします。
〈ペシ〉
 久方ぶりに訪れた日本橋の実家。聞けば、両親は既に亡くなっているとのこと。がっくりと肩を落としながらも、人目を避けるほっかむり。今しも、品川妙国寺の門前を通り過ぎようとしたときでございます。
〈ペシ〉
「泥棒だ! そっちへ逃げた! 捕まえろ!」
「がってんだ!」
 バラバラバラバラーッと、捕り物騒ぎがありまして、与三郎は、本能的にすぐ近くの商家に飛び込みました。
〈ペシ〉
「あっ、はっ、ああ、行ってしまった。ああ、よかった。あたしじゃなかったんだ」
 落ち着いて見ると、手拭いや鼻紙などを商っている家のようです。そのうちに、奥のほうから、のぶっとい声が聞こえてまいりました。
「誰でえ! そんなところで表を覗いていやがるのは。こっちへ入ってきねえな!」
「申し訳ありませんでした。黙って入ってきたりして」
「おい。おまえ、与三郎じゃねえか?」
「え? これは、観音久次の親分さん。あの、牢の中ではいろいろと本当にありがとうございました」
「いいってことよ。俺はあれからまもなくシャバに出ることができたんだが、おめえ、島、抜けてきやがったのか? そんなことしちゃなんねえとあれほど言ったじゃねえか! しょうがねえな。まあ、とにかく上がんな。おい、客人だ。茶いれてくんねえか」
「はいはい、かしこまりました。ああ、眠い、眠い」と奥の間から乱れ髪をかき上げながら出てまいりましたのは、年の頃24~28(ニジュウシッパチ)、ぞっとするほどのいい年増でございます。
〈ペシ〉
 もう分かりましたね。これ、「因果はめぐる小車」の、皆さまのご想像どおりのお富さんでございます。
〈ペシ〉
 お茶を出して、「さあ、どうぞ」と見て、びっくりいたします。
「まっ! おまえさん!」
「やっ! おまえは!」
「ああ、与三さん。どうして今時分、ここへ?」
 この2人のやりとりを見ておりました観音久次。
「ああ、はあ、そういうことだったのか。与三、あの牢の中でのろけていた木更津の長脇差しの女房ってのは、このお富のことだったのか。いや、そうとは知らねえでなあ」
「はい。そうでございます。あの・・・、このお富さんに一目会いたいばっかりに、島を抜けてまいりました。でも、観音久次親分の姐さんになったこの姿を見たからには、もうなんにも思い残すことはありません。親分、どうか、あっしを、お上に差し出してくださいまし」
「おいおい、冗談言うな。観音久次は江戸っ子だぜ? そうと聞きゃあ、なおさら面倒見たくなるのが俺の気性だ。そういうことなら、分かった。俺に遠慮はいらないからな。お富、2~3日(ニサンニチ)、与三郎の面倒を見てやんな。うめえもん食わして、柔らけえ布団に寝かしてやるんだ。あっ、そうだ。今日は鮫洲で花会の日だからな。これから行ってやらなきゃなれねえ。事によると、2~3日、帰れねえかもしれないが、その間、与三・・・、いやさ客人、ゆっくりと休んでってくんないよ」
 物分かりのいい親分があったものでございます。
〈ペシ〉
 このまま羽織を引っ掛けますと、さっさと出て行ってしまいました。
〈ペシ〉
 あとに残るのは、切られの与三と横櫛のお富の2人っきり。
〈ペシ〉
 しばらくはもじもじしておりましたが、もともと好いた同士の間柄でございますから、2階に上がって、これから杯(サカズキ)を交わします。
〈ペシ〉
「与三さん、お酒は憂いを掃う(ハラウ)玉箒(タマホウキ)とやら。くーっと呑んで、憂さを晴らしておしまいなよ」
「これは、ありがとう存じます」
「なんだねぇ、他人行儀な。元は夫婦だったんだよぅ。おまえさんがこんな姿になったのも、みんな私のせい。ほんっとにすまないと思ってるんだよぅ」
「いや、とんでもありません。姐さんがこんなふうになんなすった。本当によかった。今度はいい亭主を持って、幸せだ」
「何を言うんだねぇ。そうだ、与三さん。いっそのこと、私を連れて逃げておくれでないかねぇ」
「いやいや、そんなことをしたら、観音久次親分に義理が立たねえ。おまえさんのことは、もうきっぱりと諦める。明日になったら出て行く」
「そんなこと、言わないで。ねっ。与三さん。お願いだからさぁ、連れて逃げておくれよぅ」
「はあ、はあ・・・、すまねえなあ。久しぶりの酒でいい心持ちになっちまった。とにかく横にならせてもらえねえか?」
「そうだよね。とにかく、すぐに横になっておくれ。積もる話は明日しようじゃないか」
 布団を延べて寝かしつけました。しばらく寝顔を見ておりましたが、ふと気が付きましたのは、枕元の辺りにどこかで見た長脇差しが置いてある。
「あら、どっかで見た長脇差し。目ぬきは金の鶏。えっ? これ、あの、赤馬の持ち物じゃないか! なんだって、これを与三さんが持っているんだよぅ。ねえ、与三さん、この長脇差し」
「うう・・・、ああ、あああ、よくも俺を切り刻みやがったなあ! その仕返し(シケエシ)は、松と一緒の死出(シデ)の旅路だあ。覚悟しろぉ!・・・」
「えっ? 松と一緒の死出の旅路? 何をうなされているんだよ。与三さん! 与三さん!」
「ぐーー、かーー」(いびき)
「変だねぇ。赤馬だの、みるくいの松五郎を殺す文句を並べてたけど、ひょっとして、与三さん、江戸に来る途中で二人に会っちまって、ばらしまったんじゃないだろうねぇ」
 あんどんにこの脇差しをかざしてみると、鍔(ツバモト)から柄(ツカ)にかけて、べっとりと血しお。
「ああ・・・、はあはあ、よ、与三さん、はあはあ、本当にばらしちまったんだねぇ。なんてことしてくれたんだよぅ! そんなことした日にゃあ、島抜けして二人の人を殺めたんじゃあ、おまえさんにこれから先はないじゃあないかぁー。与三さん・・・」
 お富は、ほろりと落とす一滴。
〈ペシ〉
 やがて、東海寺の鐘の音が陰(イン)に籠って、ボーン。丑三つの刻限です。
 何を思ったかお富は、ぐっすりと寝込んでいる与三郎の体の上に馬乗りにまたがりますと、脇差しを手に取り、その切っ先を与三郎の胸先へと突きつけました。
「堪忍しておくれ。あたしゃねぇ、おまえさんが逃げ惑う姿を見たかないんだよぅ。・・・うわぁーーっ!!」
 上から乗ったからたまりません!
〈ペシ〉
 「うわぁーーっ!!」
 ワナワナワナワナーッと両手を震わせておりましたが、やがて与三郎、がっくりとこと切れてしまいました。
〈ペシ〉
「はあっ、与三さん、あたしも後から行くからね! そうだ、観音の親分にとにかく手紙を書かなくちゃ。はあ、はあ。紙はどこ? 筆はどこかしら?」
 ドンドンドンドンドン(戸を叩く音)、「姐さーん、姐さーん!」
「だっ、誰だい?」
「六(ロク)でございます。さざえの六蔵(ロクゾウ)でございます。鮫洲の観音の親分から言づけ頼まれたんで、開けてくだせえ」
「はっ、はい。はい。分かった。ちょっと、ちょっと待っててちょうだいね」
 身支度を整えまして、なんにもなかったかのように、裏木戸をガラガラッと開けました。
「あっ、姐さん、あの、観音の親分から、ここに来てなさるお客人にこれを渡してくれと頼まれたんで、渡しますよ」
 10両の金をもらいました。
〈ペシ〉
 このとき、お富は何を考えましたか・・・。
「ああ、ちょうどいいところに来ておくれだね。あのね、お酒が残っているから、片付けてってもらいたいんだけどねぇ」
「いやあ、『客人がいなさるだから、すぐに帰って来い』と言われ申した」
「大丈夫だよ。客人はね、もう2階で寝ちまったから。お酒が残ってるから、一口だけでいいから、飲んどいておくれよ」
「そうかね。じゃあ、頂戴いたしますかね」
「さあさあさあ、こっちへお上がり」
 長火鉢の前に自分が座って、向こう側(ムコッカワ)にさざえの六蔵を座らせます。流し目で一生懸命にお酌をしてくれるもんですから、六蔵、すっかりといい心持ちになってしまいます。
「ああー、うまい! あっはっはっは。姐さんのようないい女がこうやって酌してくれるとね、本当に酒がうめえなぁ」
「ほんと? あのねぇ、実は、六さんに相談があるんだよぅ」
「え? 相談? なんだね?」
「あたしゃねぇ、観音久次の親分には、嫌気がさしてるんだよぅ。ふふふっ。あたしゃねぇ、もう男を磨くだの、名前を売るだのということが本当に嫌になっちまったんだよぅ。あたしゃね、これから気楽に暮らしたいんだよぅ」
「え? じゃあ、他に好いた人でもおできなすっただかね?」
「そうなんだよ。他に好いた人ができたんだよ」
「えぇー。へへっ。そりゃあ、やっぱり二枚目だろうねえ?」
「ううん。あたしゃねぇ、二枚目より三枚目。お宅のような人がいいんだよぅ」
「えっ、えーっ、はっはっはっはっ。そんだらこと嘘でも言ってもらえると、おらぁ、魂がぶっ飛んじまうだなぁ。ああーっ、そうか。おっ、姐さんのためなら、おらぁ、なんでもするぞ。雨が降ろうが、槍が降ろうがなぁ」
「ほんと? じゃあ、頼まれてくれるかしら。2階の客人、起こしてきてもらいたいんだけどねぇ」
「ああ、2階の客人、起こすだか。ああ、わけのねえこったぁ」
〈テン〉
「ほら、寝てるだろ?」
「ああ、分かった。お客人、お客人。姐さんが起こしてくれということなんで、お起こしいたしやすよ。お客人、起きておくんなさいまし。布団を剥ぎますよ。どっこい・・・あああーっ! あっ、あっ、あっ、はっ、はっ、あっ、姐さん、血っ、血っ、血じゃ・・・」
「しーっ! 大きな声をおしでない! この人はね、元あたしの亭主なんだよ。それがね、島抜けして、2人の人をばらして江戸にやって来て、あたしに『一緒に逃げてくれ』って、こう言うだろ。あたしゃ、こんな悪人と一緒になんか逃げたくないんだよぅ。逃げるんだったら、六さんがいいだもの。だから、つい、お酒を呑まして、こんなことをしちまったんだよぅ。ねえ、この死骸の始末なんだけど、どうしたらいいだろうねぇ」
「うわぁーっ、えーっ、しー、し、し、死骸!」
「あのねぇ、妙興寺の裏手に原っぱがあるだろ? あそこに大きな穴があるんだよ。そこに捨ててしまいたいんだけど、力、貸してくんねえかねぇ」
「分かった。分かりました。分かりました。やりましょう!」
 与三郎の体をきれいに布団で包みますと、しごきで十文字に結わえて、そして、六蔵の背中によいしょっとしょわせます。
〈ペシ〉
「おお、これぁ重てえなぁ」
 表へ出たときでございます。雨がぽつり、ぽつりと降ってまいりました。
「あっ、雨が降ってきたようだね。ちょっと待っておくれ。傘、取ってくるから」
 2人で妙国寺の裏の原っぱに参りますと、ゴミ捨て場でしょうか。真ん中に大きな穴が開いておりました。
「ねえ、六さん。ここに捨てておくれよ」
「へえ、かしこまりましただぁ。じゃあ、捨てるだよ。どっこいしょ!」
 ポーンッと与三郎の死骸を投げ込んだ。
〈ペシ〉
 これと見て、お富さんは傘をその場に捨てると、しっかりと両手を合わせました。
「さあ、六さん、雨が強くなってきたからさ、これから相合い傘で帰ろうじゃあないか。そして、うちに帰ったらさ、くーっと、熱いの引っ掛けようじゃあないかぁ。あらっ、ちょうどここに井戸があるからさ、手が汚れたから、ここで手を洗おうじゃあないかぁ」
「んだなぁ。あれまっ、姐さん、この井戸、底のほうに水がちいっとしか残ってねえだよ」
「そうかい・・・」
 井戸を背にいたしますと、お富は六蔵に擦り寄って、
「ねえ、あたしたち、これからどこへ逃げようかねぇ」
「んだぁ。おらがふるさと、越後の新潟ってのはどうだね?」
「駄目駄目! そんな近いところじゃ足がついちまうからさ、もっと遠くへ行こうよぅ」
「北海道の函館ってのはどうだねぇ? ♪はーるばる来たぜ、はっ・・・」
「しーっ! 歌ってる場合じゃないよ。もっと遠くへ行こうよぅ。なんとかいう女優さんが恋の逃避行で、あの、樺太からロシアへ行ったじゃないか。ロシアはどうだい?」
「えっ? 恋の逃避行? ロシアなんて、おら、知んねえなぁ」
「じゃ、もっと遠くへ行こうかぁ?」
「ウフフフ。天国かねぇ?」
「ううん。もっともっと遠く、地獄の底だよーっ!」と言うと、どこに隠し持っておりましたか、ギトギト光る出刃包丁、取るより早く六蔵の脇腹めがけてグサーッ!
「うわぁーっ! 姐さん、おら、殺すだかーっ!」
「あったりまえだよっ! おい、六蔵、息あるうちによーく聞きなよ! ここでおまえを殺すというのも考えてみりゃあかわいそうだが、あたしにとっちゃあ、お邪魔虫。頭の足りない、おまけにブ男、誰が一緒になるもんか! だが、おまえにとっちゃあ、弁天さまのこのあたし、惚れた女の手にかかるのが、本望だろうよぅーっ!」
 グサグサグサグサグサグサグサーッ! めったやたらに突き殺して、死骸と化した六蔵の体をポーンッと井戸に投げ込んでしまいました。
〈ペシ〉
「与三さん! 見ておくれだね? おまえだけを悪人にはしやしない。これであたしも極悪人。地獄とやらで、今度こそ、一緒になろうねぇ・・・、待っててちょうだいねぇ・・・」と、にっこりと笑ったというんですから、まさに悪女の深情けとは、このことでございましょう。
〈ペシ〉
 その後、観音久次親分が帰ってまいりまして、さざえの六蔵と与三郎がいなくなったことを不審に思い、依田豊前守に訴え出ました。
〈ペシ〉
 依田豊前守のお裁きによりまして、お富は与三郎殺し、さざえの六蔵殺しを白状いたします。
〈ペシ〉
 31歳を一期として、江戸市中お引き回しの上に、鈴ヶ森で磔(ハリツケ)の刑に処せられたそうでございます。
〈ペシ〉
 外面如菩薩内心如夜叉(ゲメンニョボサツナイシンニョヤシャ)、女はつくづく怖いという、「お富与三郎」結末「与三郎殺し」の一席は、これをもって読み終わりといたします。

・・・了・・・


 「外面如菩薩内心如夜叉」とは、容貌は菩薩のように美しく柔和であるが、その心は夜叉のように残忍邪悪であるの意。仏教で、女性を出家の修行のさまたげになるものとしていましめたことば。外面は菩薩の如く内心は夜叉の如し。(精選版日本国語大辞典、コトバンク)


 ゲメンニョボサツナイシンニョヤシャって、声に出して言いたくなる音のリズムです。しかしながら、その意味するところが不思議です。「外面イケメン内心どうなってんじゃ」という方もいらっしゃいますよね。もっと言ってしまえば、男女問わず「外面如夜叉で内面も如夜叉」という方もいらっしゃいますやね。なぜに「女」に限定するのでしょうかね。大変興味深いです。


 いやあ、お富さん、なんともかとも。



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