人は強烈な矛盾を抱えて生きている。そもそも。
不倫が話題に上ることが多い昨今。
糾弾されて大炎上とか、謝罪会見とか、なんとなく、違和感を感じてもやもや。
何にもやもやしているのか。考えてみました。
ひとつめは「人間の理性(社会性)と本能の問題」
ふたつめは「不倫した人を強い言葉で非難する他人」
いろんな意見があるのは承知で、あーこういう風に考える人もいるんだくらいに思っていただければ幸いです。
ひとつ、やりきれないともやもやするのは、人間の理性(社会性)と本能の問題。
大切な誰かと、その誰かを傷つけることなくずっと一緒に助け合い、生きていきたいと思うこと。
一方で、生殖する個体の本能に操られるように他の誰かを求めてしまうこと。
この2つは、別々に考えると、どちらも社会性も本能も持ち合わせる人間らしい行動だと思う。
けれども、そもそも強烈に矛盾してしまう。
考え出すといつもとても悲しい気持ちになる。
だってもともと折り合いなんてつくはずのない2つを同時に背負わされて、どう考えても人間はかわいそう。
理性的に生きるには本能が残り過ぎているし、本能的に生きるには理性が発達しすぎてる。
答えはきっと出ない。
だから、どこまでも2人で理性と本能2つの矛盾と、戦ったらいい、と思います。
あくまで、2人の問題として、煮るなり焼くなり、気の済むように。(暴力は反対ですが。)
次に、不倫した人を強い言葉で非難する他人へのもやもやの原因を考えてみる。
自分とは全く関係がないにも関わらず、不倫した人を強い言葉で非難する人、世間。
おそらく一般的に言われるのは、不倫が増えたら社会の風紀が乱れるじゃないか!という意見。
でも、本当かな?
そもそも日本だって、江戸時代までは貞操的な思想は今のようではなく、夜這いの風習とかもあって結構ゆるーい感じだったようだし、奈良時代とかは兄弟両方と結婚してみたり、叔父と結婚できたりでこれまたゆるーく思えるし、制度って、世間体って、実は本当にただの"決まり"でしかない。
さらには今の社会の風紀って、明治になってから横流しされたもので、"絶対"ではないのではないかな。今のようでなくたって、多少貞操感がゆるくたって、社会は何百年も続いてきた。
だから、当事者でないなら人の不倫の心配なんか、今の社会の風紀が乱れることによる弊害の心配なんか、しなくていい。
というのが、勝手に私が思うことです。
でも興味深いのは、そんな制度的にはゆるーい世界でも、好きな人が他の人に走ったら、想像を絶する仕返しをしてしまうところ。
ちょっとニュアンスはずれるけれど、江戸時代の遊女なんか、自分の指を切って送ってしまったりしてたらしい。(何かで読んだうろ覚え知識だと、遊女だと言っても擬似夫婦のようにある決められた女性のところに通うのが一般的だったとか。確か。)
制度や世間は変わるけど、最初に書いたほうの"本能と理性の矛盾"はずっとずっと続いている。
つくづく人間は、進化の過程で余分な悲しみを生み出してきたのだなあ、と思うのです。
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