田中頼三再考 第一回 田中頼三と他の海兵同期水雷戦隊司令官との経歴比較

     田中頼三は巷間「生粋の駆逐艦乗り」「生粋の水雷屋」と言われている。また戦後は日本国内だけでなく、敵対したアメリカからも高く評価されている。しかし戦時中は中央から消極的だと批判されており、このことから、ガダルカナル攻防戦最終盤に水雷戦隊司令官を更迭され、それ以後ついに終戦まで海上に出る事はなかった。
    戦後、田中への再評価が敵対したアメリカ側で行われ、それをきっかけに日本国内でも同様に再評価がされるようになり、一躍名提督として様々な書籍や雑誌記事で取り上げられた。その一方で、戦中と同じく批判的評価も少数ではあるがされている。
     このように真逆の評価をされている田中であるが、なぜそのような事になったのだろうか。本論では様々な角度から改めて考察をしていき、田中頼三の再評価を試みたい。

    まず第一回目は、田中頼三の経歴がどのようなものであったかを考察していく。田中は海兵41期出身であるが、大東亜戦争中に同じく水雷戦隊司令官となった海兵同期に、大森仙太郎、橋本信太郎、木村昌福、高間完、秋山輝男らがいる。その彼らの経歴と比較していく。
 なお、田中らの経歴についてまとめた資料は、「財団法人海軍歴史保存会 日本海軍史 将官履歴上」を参考にした。
  
 資料1は田中の経歴を表にまとめたものである。巷間田中は「生粋の駆逐艦乗り」「水雷屋」と呼ばれることが多いが、これを見ると駆逐艦長経験は2回(このうち「潮」については艤装員長という駆逐艦建造中の責任者)で約2年の経験のみである。駆逐隊司令についても、第二駆逐隊司令で1年にも満たなかった。
 これに対して、戦隊や鎮守府、要港部の参謀経験が多く、その期間は駆逐艦長や駆逐隊司令のそれを上回っている。また戦艦「金剛」艦長の後、第六潜水戦隊司令官を4ヶ月務めた後、第二水雷戦隊司令官となっている。
 しかしながら、注目すべき点がある。東京大学出版会「日本陸海軍の制度・組織・人事」によると、田中は海軍水雷学校高等科(19期)を首席で卒業している点である。おそらくこの実績が、後々の人事に影響した可能性がある。(それでも、なぜその後水雷系の職務に就いていないのかという疑問が残る)
 ちなみに、田中が海軍大学校特修科出身であると記述している資料があるが、実際には就学実態はない。
 以上のように、意外にも田中が巷間言われているような「生粋の駆逐艦乗り」といえる程の小型艦勤務経験は、他の水雷戦隊司令官と比較して少なかったことがわかる。唯一、海軍水雷学校高等科を首席で卒業していることくらいが、水雷系で目立つ実績のようだ。

資料1 田中頼三の経歴

 それでは、大東亜戦争中水雷戦隊司令官となった者たちのうち、田中と同期だった者たちの経歴を見ていこう。

 まず大森仙太郎を見ていく。資料2は大森の経歴をまとめたものであるが、駆逐艦長は兼務を含めると3回経験している。また駆逐隊司令を2回経験しているが、戦隊や陸上司令部勤務は1回しかない。また大森は海軍大学校特修科学生にもなっている。

資料2 大森仙太郎の経歴


 次に田中と同じく、ガダルカナル攻防戦では水雷戦隊を率いて戦った橋本信太郎を見てみよう。資料3は橋本の経歴をまとめたものであるが、水上艦艇勤務が田中より多く、また水雷戦隊参謀、水雷隊司令、駆逐隊司令2回と水雷系指揮官としての経歴も豊富だった。さらに海軍大学校甲種学生にもなっている。

資料3 橋本信太郎の経歴

 次は田中と同じく「生粋の水雷屋」として戦史でも有名な木村昌福を見てみよう。資料4は木村の経歴であるが、掃海艇長3回、駆逐艦長6回、駆逐隊司令3回と、田中、大森、橋本らに比べて、小型艦勤務や駆逐隊司令勤務が豊富だった。まさに「生粋の水雷屋」といえる。

資料4 木村昌福の経歴

 次に高間完であるが、資料5の高間の経歴を見ると駆逐艦長3回であったが、駆逐隊司令を4回経験している。木村ほどではないが、水雷系勤務が多い。

資料5 高間完の経歴

 次に秋山輝男であるが、資料6の秋山の経歴を見ると、潜水艦と駆逐艦勤務、掃海司令、駆逐隊司令、砲艦隊司令、潜水艦基地司令と、他の者たちよりも小型艦、水雷系勤務がかなり豊富だった。おそらく「生粋の水雷屋」というのは、秋山のことを指すのであろう。

資料6 秋山輝男の経歴

 以上、田中の経歴を大東亜戦争時に同じ水雷戦隊司令官に就いていた他の同期の者たちと比較をしてみたが、巷間いわれている「生粋の駆逐艦乗り」というイメージとは違うことがわかる。

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