自社の文学の特性に気付いているか
ちょっと早めに出社したら、コート着用率が高くて驚きました。数十分の早い出社でも気温の差が服装に現れるのですねえ。
さて、……
今回のタイトルを見て「自分の勤務先は、出版社じゃありません!」という声が聞こえてきそう。だけど、私は各社ごとに文学はあると思っている。
まず、稟議書の体裁。お勤め先の会社で、組織として意思決定することは当然あるはず。それが社長の一言で決まる会社もあるとは思う。しかし、大抵はそうではないと思っている。
それぞれの部署の担当者が稟議書を起案し、組織内の上長が確認、それを更に経理や経営管理に回付して決定権者が決裁をする。金額やことの大小によって決裁者のレベルも回付先も異なるだろうけど、勤務先での意思決定はこのような手順を踏んでいるものと推測している。
そして、この稟議書の書式は、各社ごとに異なると思っている。基本的には大っぴらに世間で流通する文書ではない一方、各社の社風や置かれている事業環境、更には歴代の文書や規程の管理箇所の意向等の影響を色濃く反映して今に至っていると考えるのが素直であろう。
もしかしたら、元の財閥や系列で最初は似たようなひな形を元にしていたのかも知れない。しかし、それも経年により独自の進化をしたはず。ぶっちゃけ、方言のように同じ言葉とは思えない程の差異が生じることもあり得ると思っている。
今、手元の稟議書を読んで世間一般の文書として見ても違和感を感じないのであれば幸いである。しかし、そうではない会社も少なくないのではなかろうか。
私の勤務先の文書は、一文がやたら長い。例えば「〇〇は、・・・であるとともに△△であることに鑑み、□□や★★のリスクを念頭に置きつつ、◇◇により一定の担保を得て、◎◎を進めることとする」というような感じ。
実際は、記号で書いたところは、もっと長々とした文節であることも少なからずあって、正直読みにくい。そう思っていたら、ある先輩からは「当社の稟議書って北八重洲文学だと思わんか」と言われて腑に落ちた。
八重洲は東京の地名。本社がかつてあったところである。その社内で脈々と長々とした文章が受け継がれてきたんだなあと思う。
読者のあなたはお気づきだと思うが、私は短文で繋ぐ書き方をしている。それも、この文学に染まらないようにという警戒感の表れである。恐らく過去の我が社には「きれいに一文に纏められる自分は偉い」と思った人がいたのだろう。でも、今はそういう時代ではない。
長文の最大の欠点は、主語と述語の関係が分かりにくくなること。日本語は、元々主語と述語が離れやすい。基本文頭に主語が、そして文末に述語が来るのだから当然である。文を長くすれば、ますます距離が離れて関係が分かりにくくなる。
それでは、本来言いたかったことも伝わらなくなってしまう。加えて、述語にたどり着くまで、長い文章を頭に貯めて置かねばならない。これは脳を疲れさせ、理解を得にくくする。
一読してスッと理解してもらえる文章。稟議書ではそれが大事ではないかと思っている。
もし、自社の文書においてこれは変だと思ったら、自力で変えられるところまで変えてみてはどうか? それが将来の後輩達から感謝されることになるかも知れない。
お読み頂き、ありがとうございました。
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