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文章と文章のあいだ

私たちは、文章を読むとき、文章を読んでいない。

例えば、誰が書いたのか、という情報も文章から受け取る質感に大きく影響する。それは、文章そのものというよりも、文章の外にある何かを感じとることだ。どんな時間に読むか、読む人の周りの環境も読むことの質感に関わっている。

書かれたものが、書かれたその通りにしかならないのならば、文章に解釈の余地はない。これはこう読むのが正しいと決めてしまうような、解釈の仕方はそれ以外の読み方をする可能性を捨ててしまうことである。

文章の周りには何があるのだろうか。書かれた状況や、書く人の感情など様々な具体的な要素が絡まって文章は存在している。

例えば「さみしい」という言葉が意味を持つためには、私たちの精神がどこかに存在していて、「さみしい」という言葉に打ち震える能力を持っていなくてはならない。それは言葉にするのには微妙な感覚で、「さみしい」という言葉から受け取るものは人それぞれ違う。しかし、それらが全て「さみしい」という言葉で結びついている。そうした言葉の、異なる精神を結びつける力がないと、書き手は「さみしい」と書くことはないだろうし、読み手もそれに感応することはできないだろう。

言葉を書いて、読む、というやり取りの前提には様々な存在があり、決して文字という記号だけのやりとりではあり得ない。

そうした前提としての存在は、書くことや読むことを超えて在る。だから、それらは書かれないときにもそこに在る。読まれないときもそこに在る。そして、書かれたとき、読まれたときに目を覚ますように現象する。

とはいえ、書かれていないときや読まれていないときもそれらは、水面下で働いている。文章と文章の間には何かがある。

文と文のあいだに、行間という概念がある。一方、書かれた文章のと文章の間に何かを醸し出すような存在の概念は文体というのがふさわしいだろう。「これはこの人が書いた文章だ」とわかることがある。そのとき、その人が書いた他の文章と今読んでいる文章を参照してそう判断しているのだ。だから、文章と文章の間にある「書き手」という存在を感じ取って、文体を発見するのである。

しかし、文体と書き手の対応は単純なものではない。複数の文体を持つ書き手もいる。他の人が書いた文体を模倣して書くことも可能である。そもそも、文体が定まらない状態の書き手もいる。だから、一つの書き手が何かを書けば、それで文体が完成するというような直接的な関係ではない。

文体を作ることはあたかも、文章の世界にもう一度自分の体を構成し直すような作業である。私たちが文体を感じ取るとき、外見も性格もわからない存在を言葉の羅列のパターンや語彙によって感じ取っている。それは言葉の世界の感性であって現実世界における感性とは一線を画している。

とはいえ、文体と現実の肉体が完全に分離しているわけでもない。それらの間には目に見えないつながりがあるように思える。書き手の書く時間帯や速さ、何かを感じ取るときの癖、着眼点などは必ず文体に影響している。書くという行為は現実の行為であるからだ。自分の体で感じたことを、自分の体で書いている。

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風が吹けば桶屋が儲かるというような、複雑で脈絡のないつながりである。それでも私たちはつながっていると感じ取る。物理的には、見えないつながりなどを想定することはできない。ボールが別のボールにぶつかって、それが動くというような直接的な因果関係ではない。確かに、キーボードの「k」と「a」のキーを押せば、「か」とローマ字入力される。それを変換すると「蚊」や「火」にすることもできるだろう。そのとき、確かに私の指が「か」という記号を呼び出したが、その指の動きと「蚊」や「火」という言葉が持つ意味とは関係がない。「か」が、「蚊」になったときに私たちの行為は、言葉が使われ、読まれてた営みの世界に飛躍するのである。

身体を解剖しても、「心」を見つけることができないように、書くことの物理的な起源を遡っても「文体」を見つけることができない。物理的に書かれているのに違いはないが、言葉の世界に向けて「か」という記号が放たれるときに、記号それ自体が持つよりも多くのものを背負って、記号は言葉になるのだ。

私たちは、それでも文体を感じ文体で踊ることができる。言葉は道具として、使うことができるものである。ペンやハサミのように具体的な存在ではないが、使うことができる。それは、抽象的な道具である。普通の道具は、今ここにいる使用者が使うことによって機能する。ペンはそれを持っている人が、書けるのだ。しかし、言葉は、かつてそれを使っていた人、そしてこれからそれを使うだろう人が存在することによって機能する。言葉は、時間を超えた道具なのである。「さみしい」という言葉には、連綿とした記録が残っている。今まで誰も「さみしい」と言わなかったのならば、「さみしい」という言葉は機能しない。そして、これから誰も「さみしい」と言わなければ「さみしい」という言葉は死ぬ。そうした道具を使いこなすことができるのである。人が高度な社会性を持っていることと言葉が機能することには、深い関わりがあると言える。他の誰かが使った道具を、次に使う人が受け継いでいく。そうすることで、言葉は時間や空間を超えていく。

文章と文章の間に思いを馳せるとき、そうした広大な時間や空間に文体を広げてゆくことができる。一人の書き手を一つの文体として認識する必要はない。別々の物理的身体が書いた言葉を、一つの文体として感じることは可能である。元から言葉はつながっていて、そのつながりを新しく見つけ出すことも可能である。


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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!