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太平洋戦争の始まりから81年で意外に詰めて考えられていないこと
さて、……
今の日本で、12月8日を意識する人がどれくらいいるだろうか。多くの人が12月で意識するのはクリスマスや年の瀬、冬至くらいのもの。もしかしたら、忠臣蔵というツウな人もいるかも知れない。
8月の原爆投下やソ連の参戦、そして終戦についてはまだまだ意識される。それどころか特番が組まれることが多い。それに比較して12月の開戦について意識されないのはどうかと思う。
正直なところ、8月に起こった悲惨なできごとは12月の開戦の結果である。それを伝える責務が我々にはあるけれど、そもそもその結果を導くこととなった決断について、もう少し掘り下げて考えるべきではなかろうか。
ここで、開戦の詔書というものがある。その内容は以下のリンクから辿って頂きたい。
毎年終戦記念日が近くなると、終戦の詔書はドラマやニュースで放送される。だからあなたもよくご存知だと思う。でも、開戦の詔書は存在すらほぼ知られていない。なお、こちらは天皇自らが読まれてはいない。
これと終戦の詔書を並べてみると、基本的な構成が似ている。天皇が自ら起草するのではなく、複数の文筆の大家が練り上げたものであるので、どうしても一定の型にはまっていくからだろう。
この中で、私が注目するのは「洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕󠄁カ志ナラムヤ」である。
どこの国でも、戦争を始めるのに自分が好んで積極的に戦いを挑むとは言わない。まして、侵略する等とは口が裂けても言わない。
「やむを得ない」「私の志ではない」(だって、相手が悪いんだから)と言うのだけど、それはロシアがウクライナに攻め込んだ時も同様であった。
なお、「豈朕󠄁カ志ナラムヤ」の一節があったにより、終戦後の東京裁判で天皇の戦争責任が問われなくなったのは有名なこと。
開戦に至る前に、日本には多くの「開戦を避ける」選択肢があったと言われる。そう指摘する識者は多い。
でも、実際はその選択をしなかった。歴史にイフはないと言われるが、本件に関わりあまり考えられていないイフがある。それは、開戦しなかったら日本はどうなっていただろうか、である。
開戦直前の日米交渉において、日清戦争の際の臥薪嘗胆の故事にならって日本がハルノートを受け入れたとする。そうすれば、日米開戦は当面は避けられただろう。
しかし、石油の全面禁輸が解除されたたとは思えないし、石油不足が続いていたら日本の軍艦も戦車も満足に動けない。おまけに、中国や仏印からの全面撤退も、中国では戦線が膠着状態とはなっていたものの負けてはおらず、現地の将兵が素直に納得できたかは大いに疑問。
恐らく、終戦時にもあった主戦派によるクーデターが起こった可能性が高い。
ではもっと前、世界恐慌の頃まで遡ったらどうだろう。ものすごい不景気で、地方では娘の身売りが行われていた。「大学は出たけれど」という言葉が流行るくらい就職も厳しい。大きなフラストレーションが溜まっていた。
政府も、一億国民全部を食べさせることができない状況で、海外移民も奨励されていた。そのような背景があって、満州国建設に向かっていったのである。
満州国建設までは事前の準備もあってうまくいった。仮にここで止まっていたらどうだったのか、とは思う。というのは、この時点なら日米開戦による破滅的な被害を止められたし、だからこそその後日中戦争に至ったのは完全に失敗だったと思っているからだ。
ただ、止まった場合に日本はどうなっていただろうか。そうした場合に世の中はどう動いていったかのシミュレーションは、キチンとすべきだと思っている。残念ながらそれがなされていない。
もしかしたら、やはり日米開戦に繋がっていたかも知れないのだけど、その運命の歯車を押しとどめられたのかに興味がある。
お読み頂き、ありがとうございました。
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