B棟に決まった!
(2021年4月頃)
実家に泊まり込みの介護を始めて数ヶ月。整理されることもなく溜まっていた昔の写真を見たり、母や父の手帳や大学ノートを読んだりして過ごしていた。
母は、若い頃に保育園を立ち上げて、そのまま園長先生になり、定年まで働いた。いわゆるキャリアウーマン、働くお母さん、今で言うと、ワーママだ。
当時(1960〜70年代)は、まだ保育園の歴史は浅く、認知も低かった。女性は結婚と同時に仕事を退職する、いわゆる「寿退社」が当たり前だった。
そんな世の中に反旗を翻すかのように、彼女やその仲間たちは闘志を燃やしていたのだ。
女性も、結婚や出産後も働き続ける選択肢がある。そんな世の中にしたい!
母たちの願いを、幼い私も素晴らしいと思っていた。
父もその運動に参加していた。
だから、2人のノートは、怒りや理不尽から、喜びや希望まで膨大な量の「保育運動」のことがびっしり書き込まれていた。
大学ノート100冊以上はあっただろうか?そんな中に数冊、母がスクラップしていた料理のレシピのノートがあった。
新聞の切り抜きや、雑誌の切り抜き、または、母の手書きで書き写したものもあった。
「ねーねー、お母さんのこのレシピのノートすごいね。たくさん切り抜きや、手書きのがあるね。これ見て、料理していたの?」
聞いても、ちゃんとした返事はしてくれない。
母は、子育ては苦手だったようだが、料理は得意だった。
常に、健康に気を使った料理を作ってくれていた。
調味料に頼らず、出汁をきちんと取って料理をしてくれていたので、薄味でも美味しかった。
覚えているのは、鰹節けずりが家にあって、カチカチの鰹節を削るのは、いつも私の役目だった。
力がない私は、削るのにとても時間がかかったし、嫌いだった。
でも、その時に削りたての鰹節をいつも食べていたので、私は出汁の味が大好きになった。
こうやって料理にも貪欲で、いろんなレシピからインスピレーションをもらって、作ってくれていたんだ。
私は、母に嫌われていると思い込んでいたが、少し心の鎧が外れた気がした。
彼女は、言葉で表現することが苦手だっただけで、愛情はあったんだ!
これは、私にとって大発見だった。
大人になって、妹と母について話すことが増えた。
3人兄弟の中で私だけが嫌われているのかと思って大人になったが、実は、妹も、自分が嫌われていると思って、とても傷ついていたらしい。
妹には悪いが、それを聞いてなんだかホッとした。
もしかして、これは私たちの問題ではなく、母自身の問題だったのかもしれない。
そう思うと、気持ちが楽になったし、母のことが愛らしく思えてきた。
私は夜勤の時以外は母と2人で過ごすことが多くなり、必然的に会話も多くなっていった。
母に、「私の住んでいる団地にとっても素敵にリフォームされた部屋があるから、見に行ってみよう!」と提案してみた。
しかし、こちらのマンションがとても気に入っていた母は、最初はうかない返事をしていた。
こうなったら、プレゼン資料を作るしかない!と思い立ち、
その部屋の写真をスケッチブックに貼って、手書きで、お金の収支や、私たち親子の負担軽減などを訴えた。
あとは、母がこの部屋が気に入ってくれたら、いいな。
すると母は、「一回、見に行ってみようかな?」と言った。
やった!見れば絶対気にいるはず。
パソコンがうまく使えないけど、手書きでもプレゼン資料が役に立った。
そして、不動産屋さん立ち会いのもと、お部屋を見せていただいた。
春らしい陽気のいい日だった。
太陽が、南向きの部屋に差し込んで、真っ白の内装が余計綺麗に見えた。
母の顔色がパァーッと明るくなって、ここに引っ越すことを決めてくれた。
後から聞いたのだが、あの部屋がとっても綺麗だったから一発で気に入った!とのこと。
古い団地なので、築50年以上経っていたが、何しろリフォームしてあってとても綺麗だったし、車椅子でも生活がしやすかった。
それから、1ヶ月後に引っ越しが決まった。
❤︎LOVE&MIND&SOUL&MUSIC♬
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