外れた枷と自我の消失

 焦燥感に駆られている。何故か。今日一日を怠惰に過ごしてしまったからだ。
 年が明けてからまだ四日しか経っていないというのに、既に自分に掛けた枷(https://note.com/rikka_zuriyama/n/n283e19333a65)が外れているからだ。
 ある人は、この、自分に対する怒りや憎しみ、あるいは自責の念を「夜の街へ駆けて闇の中にとけてしまいたい」など例えるが、私はどうだ。
 確かに、逃げて、とけて、消えるもいいが、消えたとて消えきれないだろう。希死念慮とは違う、消えてしまいたい願望がここに存在する限り、消えたとは言えない。コギトエルゴスム──我思う故に我あり。自我がある限り、存在が消えたとしても「私」は存在し続けるであろう。

 逆に、私が「消えた」というのはどういう状態だ。自我がなく、ここに自分がいると証明できなくなったら「消えた」といえるのだろうか。
 いや、私が存在していると言える人がいる。この消えたくなる心、焦燥感、怒り、憎しみ、自責の念を知らなくとも、いま、ここに私が存在していると理解している人、もしくは過去の「私」を知っていて、嫌悪し、知っているが故に私の存在を消せない哀れな人や、過去の「私」をかわいがってくれたが故に、私への情が沸いてしまった優しき不幸者が、私の思考を、自我を語る。存在が消えたとは言えない。

 私が理想とする「消えた」状態とは、世の中にいた形跡を全く残さず、葬式や火葬など、死して生まれるものも一つも残さずいなくなることだ。
 私がいなくなったと知って、様々な感情を揺らされる存在のことを考えると哀れでならないのだ。


 答えは見つからない。「私」は消えることができない。ただ、夜の山を駆け巡り、そのうちに臆病な自尊心と尊大な羞恥心が災いして羆へと変貌していく妄想をすることしかできないのだ。




 ところで、書いている途中で何故か焦燥感が消えてしまった。

 消えたい願望や自責の念は存在しているが、ぱたりと勢いが消えてしまった。

 もうそろそろ眠たくなってくる時間とはいえ、この「消えたくなる自分を消してしまう存在」というのは私に他ならないのかもしれない。

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