人生の分岐点
プロローグ
皆さんこんにちは。
お盆休みも明け現実社会に戻り、夏の暑さもあまり緩和されず約7年ぶりに愛知県で7.8月を過ごしています。
皆さんも熱中症にはくれぐれもお気をつけ下さい。
さて、今回は人生の分岐点というテーマで執筆していきたいと思います。
では何故そんなことを執筆していきたいかと言いますと…
休日が暇すぎるうえ、外にも暑くて出ようと思わないためnoteをやろうと思ったのが一点目。
お陰様で先月よりも電気代はかなり出費しましたが、生き抜くためならそさすがにそこは妥協しませんね。
そして、noteの機能の1つとしてある投稿コンテストというものに参加してみたいと思ったのが二点目。
noteをやり始めて約3年半が経過しますが、私自身初めての試みです。
今回の投稿コンテストのテーマが #あの選択をしたから というテーマです。
このテーマに沿って今回は人生の分岐点というタイトルで綴っていきたいと思います。
それでは本題へ。
努力を継続できなかった少年野球時代
私は中学3年生まで野球少年でした。
部活動は野球部に所属していて、ちなみに打順とポジションは1番ショート市原君でした。
おまけに中学3年生の頃は一応キャプテンをしていました。
野球は小学2年生の頃から始め、初めて夢中になったスポーツだったので楽しくやることができていました。
ただ、上を目指していたかというとそれは現実的に諦めていました。
特に体格が野球をするのには小柄だったので、高校で続けていける自信もありませんでした。
そのマインドのせいか、上手くなりたいという気持ちはありましたが、その気持ちに反比例するかのように努力を継続することができませんでした。
例えるなら素振りですね。
野球をしている方なら分かるかもしれませんが、素振りをしないとスイングスピードは上がりません。
もちろん成長と共に体も大きくなり、勝手にスイングスピードが上がることもありますが、他の人よりも頭一つ飛び抜けた存在になるにはそれに見合った努力が必要です。
その努力を野球に関してはすることができませんでした。
長距離走との出会い
ここで人生の一番の分岐点が訪れます。
それが後に大学4年生まで全力で打ち込むことになる長距離走との出会いです。
私の中学校は陸上部が存在しませんでした。
ですが上半期は陸上競技大会、下半期は駅伝大会が地区で毎年開催されるため、中学校内で大会に出場したい生徒を寄せ集めて、その中でも記録の良い生徒が何名か選出され大会に出場できるという仕組みでした。
ちなみに中学校入学当初の私は特別足が速かったわけでもなく、何なら初めて中学校のグラウンドで走った1500mが6′00を超えたのを鮮明に覚えています。
学年で一番速かった訳でもなかったので、その当時はそこまで走ることにのめり込んでいませんでした。
それまでの人生で最も悔しい日
そして中学2年生の際に転機が訪れます。
中学2年生の秋に県大会出場を決める大事な駅伝大会が開催されました。
私の中学校も出場しましたが、出走する選手の中に私の名前はありませんでした。
というのも完全に実力不足で応援という形で現地に帯同しました。
駅伝大会は10位までに入れば県大会に出場できる大会で、当時のチーム状況的には確実に県大会には出場できる戦力は整ってました。
ですが1区で大幅に遅れてしまい、30位ぐらいで襷を2区に渡しました。
その駅伝大会は6区間あり、区間を上げるごとになんとか挽回して6区に渡る時点では12位まで押し上げていました。
最後アンカーの選手が必死に走り、一時は9位まで浮上しました。
しかし、最初飛ばしすぎたツケが回りゴールまで残り100mぐらいで失速。
脱水症状になってしまい更には蛇行し始めてしまいます。
その間に二人に抜かれてゴールをしたのが11位。
数秒差で県大会に出場することが出来ませんでした。
このとき先輩方には来年は必ずお前が走って県大会に出場しろよと何度も声をかけられました。
この日は私にとって、それまでの人生で一番悔しい日かつ大きな人生の分岐点になりました。
自分至上最大の努力
次の日から長距離という競技に対して取り組む姿勢が変わりました。
それまでは野球も走ることも中途半端に取り組んでいましたが、その以降走ることには一切妥協をしませんでした。
野球では全く続かなかった素振りに対して、不思議と走ることは毎日学校から帰ってきた後に続けることが出来ました。
確実に素振りよりも毎日3km走る方がしんどいですが、あの日の悔しさを忘れずに周りのことを全く気にせずに黙々と走り続けました。
学年が上がり3年生になった頃には学年で最も速いタイムを叩き出して、上半期の陸上競技大会では3000mで県大会に出場できるほどに成長していました。
そしてあの日から一年が経ち、リベンジの日がやってきました。
私は1区を任され、その日は緊張とプレッシャーを凄く感じていました。
スタートしてからは何とか先頭集団に食らいついてとにかく必死に走りました。
最後は死力を振り絞って5位で襷を繋ぎました。
走り終わった後は初めて倒れ込み、しばらくまともに立つことが出来ませんでした。
ちなみにそれから7年間競技を続けることになりますが、この日よりも出し切って走ったことはありませんでした。
その後チームは4位でゴールをして見事に県大会出場を決めました。
安堵の気持ちに浸り、同時に今までの努力が報われたなと感じました。
中学2年生の秋にそこで腐って諦めるか、それとも一つの目標に向かって諦めずにやり続けるか。
この二択の選択肢で私は後者を選択しました。
あの日にあの選択をしたから今の私があります。
それから中学校を卒業後、高校は愛知県の強豪校、大学は関東の強豪校で競技を続けました。
きつくてしんどい道のりではありましたが、毎日が充実していて私自身の青春が長距離そのものでした。
何度も言ったことがありますが、この選択をしたことに全く後悔はありません。
今の自分の価値観は
少し長くなりましたね。
ですがもう少しだけ付き合っていただけると幸いです。
一旦深呼吸でもしましょうか。
…はい、ということで最後は今現在の自分の価値観はです。
野球から長距離にシフトチェンジしたことによって、人生がとても充実し普通だったら味わえない経験を沢山させていただきました。
では私生活面や人間性の変化はというと。
これは中学校の頃にまで話が遡りますが、私は中学2年生の転機が訪れる日まで非常に横着な生徒でした。
ですが長距離にのめり込んでから普段の生活も真面目になり、クラスを代表する役員もやり始めました。
私は勝手に長距離を始めたからかなとアバウトに思い込んでいましたが、不思議なことでもありました。
そして中学校卒業から7年が経ち、今年の3月末に当時中学2年生だった頃の担任の先生と私と私の友達の3人で飲みに行く機会がありました。
昔話に花を咲かせていた中に、私が長距離にのめり込んでいった話題になりました。
担任の先生からは“利希也は長距離を始めてから変わったよね、それからは安心して見れたしクラスのことも任せることが出来た”と言われ、なんでだろうなと思っていたら“何かにのめり込んで必死になる生徒は生活面も真面目になって人として大きく成長するからね”と続きをお話してくれました。
その時にようやく自分でも理解することが出来て、長距離に打ち込むことをしていたから自ずと私生活も比例するかのように、競技を成長させるために人としての成長を自然ととすることが出来たのかなと腑に落ちました。
恐らくあのときに長距離をしていなかったら、人の気持ちも考えることが出来ず、器の小さい人になっていたかもしれません。
長距離を頑張ることを選択したので、今の自分の価値観には自信を持って生活出来ているのかなと思います。
エピローグ
ということでいかがだったでしょうか。
今回はなんだか小説のようになってしまいましたが全て実話です。
今後も執筆する内容に困ったときは、その時の投稿コンテストの話題に沿って自分を紹介していきたいなと思います。
ちなみに今現在、創価大学駅伝部は妙高高原にて2次合宿を行ってます。
そのためタイトルの画像を私が現役の頃の妙高高原で撮影した写真にしてみました。
私は嫌な思い出しかないので二度と行きたくありませんが、確実に力は付くので選手の皆さんにはぜひとも頑張って欲しいですね。
以上で終えたいと思います。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
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