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中村彝と中原悌二郎の読書メモ(1)

 中村彝の親友・中原悌二郎は、大正3年の春、突如喀血に倒れ、故郷の北海道・旭川に帰った。匠秀夫氏によると、この静養中、彼は旭川第7師団でロシア語教官をしていた米川正夫を知り、ドストエフスキーの小説を耽読したという。旭川では米川を中心にした文学青年の間でガリ版刷りの文芸同人誌『呼吸』が発刊されていたらしい。
 しかし、悌二郎の文学好きはその時に始まったわけではなく、明治40年の彼の日記にも見られるように、国内外の多くの文学者の名前が記されている。ロシア文学ではこの頃トルストイの名が出てくる。
 すなわち同年1月4日には、「トルストイ自省録、抜」として次のような抜粋が記されている。

 「①群衆の充満せる処にて誰か火事なりと叫ぶものあらば、公衆は先を争いて走り出で、為に数十数百の人は殺傷せらるべし。舌によりて生ずる明瞭なる害悪も亦斯くの如し。只吾人の言語の為に亡ぶる人が吾人の眼に入らぬ場合に於てもこの害悪均しく大なり。②善をなすにも努力は必要とす。されど、悪より自制し、感情私欲を制御するには、努力はなお一層必要なり」。(『彫刻の生命』、引用文中の①②は、”note”執筆者による)

 上記引用①②は、一つの文章としても読めるかもしれないが、実はよく読んでみると、意味内容のつながりがよく解らない。そこで、その出典を調べてみると、少なくともトルストイの古い訳本『我懺悔』(明治12年)には、相当箇所が見つからなかった。
 替わってトルストイの他の文献(悌二郎の同時代の訳本ではないが『人生読本』昭和24年刊、または『一日一善抄』昭和25年刊など)に、①に相当する箇所が見つかった。そして、やはり②は、①に続く別の項目にあることが分かった。
 悌二郎はおそらく、別個の項目を自分の「日記」に続けて書いて、その出典を「トルストイ自省録」としたのだろう。もしくは、そのようなタイトルの本に、トルストイの相当箇所の内容も含まれていたのかもしれない。それを調べるには、悌二郎が読んだと思われる同時代の訳本自体を探さねばならないが、まだ見つからない。

 トルストイが没したのは、1910年(明治43年)11月20日だが、明治40年1月16日の悌二郎の日記には、「萬朝(報)に左の記事ありたり」として、こう書いている。
 「嗚呼異国の一貧書生余等の如きも猶痛感に堪えず。そは露西亜の文豪レオ・トルストイが危篤の報なり。願わくばトルストイの身に幸いあれかし。」
 また、同年2月16日には「嗚呼若し吾人にして、霊の何物たるかを解し、道徳的円満の域に進まんとするならば、肉食、飲酒、喫煙、火の気を断然遠ざくべきなり。余はここに始めてトルストイの菜食主義の如何なるものかを解するを得たり」とも書いている。
 さらに、同年2月20日には「渡辺氏より借りたる『世界三十六文豪』を読む、なかなか快なり」の記述がある。この本は『中学世界』(博文館)の増刊号として明治38年9月に発行されたものらしい。

 しかし、悌二郎とロシア文学、そして彼らの美術との関連で一層興味深いのは、ドストエフスキーかもしれない。
 彼は、中村彝の代表作「エロシェンコ氏の像」(大正9年作)やロダンの芸術を語るのに、鋭敏な感覚で、時代を先取りするかのように、ドストエフスキーのいわゆる《空想的リアリズム》の概念に注目しているからだ。
 それについて私は、「中村彝と中原悌二郎 ドストエフスキーの《空想的リアリズム》をめぐって」という記事を書いている。それにはやはり悌二郎が読んだ本の典拠を探る問題が含まれており、本稿の記事とも、実は関連がある。(続く)
 
 
 

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