中村彝の手紙(断簡)小考(1)書かれた年代の推定
茨城県近代美術館に中村彝の手紙の小さな断簡がある。伊藤隆三郎宛の手紙の最後の部分だ。毛筆で書かれている。
「広瀬君や中原君 はどうして居るかしら どうか消息を知らせ下さい サヨナラ 彝 隆三郎様」
たったこれだけである。が、彝の手書き文字や言葉遣いに慣れていないと、読み取りに時間がかかるかもしれない。さて、首尾よく読み取れたとして、ここから何が言えるだろうか。
例えば、この断簡の年代は、など。
私はかつて同美術館にいたとき、これを調べてみようと思ったことがあった。が、結局、何処にも何にも記さなかったので、これについて書き残しておこう。
先ず、広瀬君というのは、広瀬嘉吉のことである。それは、伊藤宛の他の彝の手紙からも明らかだろう。
では、中原君というのはどうか。直ぐ思い浮かぶのは中原悌二郎だが、彼のことでいいのか。もちろん、それでいいと思う。彼以外には考えられないし、伊藤も既に彼を知っていたろう。
伊藤は、白川市歴史民俗資料館の加藤純子さんの研究によれば、広瀬を介して彝に初めて会ったが、それは大正2年の秋頃である。そして広瀬は大正3年には郷里に帰っているので、伊藤は彝とその周辺の美術家の状況を広瀬から詳しく聞くことができたであろう。
ところで、中原信が、悌二郎に初めて会った時のことを書いている文章がある。そこには「広瀬、中原」が登場している。
中原信は、大正3年の春ころ初めて悌二郎に会った。そのころ信は、木下尚江の斡旋で中村屋の世話になっていた。
ある日、中村屋で彝の脇に二人の男が座っているのに気付いた。そして信はこう書いている。
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「広瀬、中原」これがその後しばしば(相馬)一家の間に呼ばれる姓であったのですが、そのどちらが広瀬さんで、どちらが中原さんやら私にはわかりもしなければ、またわかろうとも致しません。ただ二つの顔を同時に浮かべて「広瀬、中原」にして置きました。中原信『中原悌二郎の想出』(昭和56年)
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この信のちょっと面白い記述から、広瀬と中原は五人組の中でも、まだ大正3年当時も、かなり親しくしていたようで、二人は時に行動をともにしていた様子が窺える。
ところで広瀬の郷里は福島県の須賀川であり、この年大正3年に帰郷した。そして彼が再び上京するのは大正9年である。悌二郎も大正3年の初夏には旭川に帰郷し、翌4年の5月には再上京する。悌二郎と信は大正5年の春に再会し、10月には婚約する。よく知られているように、そこに至るまで彝が面倒を見ていた。また彝は、広瀬の画業と、悌二郎とは対照的な彼の性格をかなり心配していた。
以上のような状況を勘案すると、この断簡は、二人の消息を彝が知らず、むしろ白河の伊藤が把握している(かもしれない)と彝が思っている期間に書かれたものと想像される。つまり、広瀬もすでに帰郷し、悌二郎も在京していない期間のものであると推定することができるだろう。
要約すると、この断簡は、大正3年初夏以降、遅くとも中原が東京に戻る大正4年5月前までのものではなかろうか。
もちろん、彝も大正3年の12月から大正4年の3月までのおよそ100日間、伊豆大島に滞在している。だから彼らが在京していようがいまいが、その間の二人の様子は直接には分からない。
次回、この断簡が大島から出された手紙の末尾である可能性も含めて、検討してみよう。