シュテファン・ツヴァイク『ジョゼフ・フーシェ』
この世の中を実際に動かしている人間はいったいどのような種類の人間なのだろう。
こうした疑問が沸き起こってきた時期があった。そのころ読んだのが、ガルブレイスの『権力の解剖』やシュテファン・ツヴァイクのこの特異な伝記本である。
しかし、この本の苦い味わいが解るようになるには、しばらく後に再読する必要があった。
「優れた人物、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演ずることはまれであって、はるかに価値は劣るが、さばくことが巧みな人間、すなわち黒幕の人物が決定権を握っている」といういう一節は、この本のテーマを語っており、私の政治的軽信を戒めた。
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上記は、あるタウン誌の字数のきわめて限られたコーナーに、2001年に書いた。
これを書いたずっと前の若いころの私は、人間の価値を多分に知的なものに求め、美的なものに憧れ、芸術的なものを愛した。
スポーツはあまりせず、人と交わることもあまり得意ではなかった。
自然を見つめるよりも人間が創りあげたものに関心があった。旅行にもあまり出ず、世の中に生きている多くの人を俗人と見做して敬意を払うことが少なかった。
そんな私に「有徳と不徳との間に差別を設けず、人間の意志の価値と情熱の強度だけをはかる」などという人間観はあまり縁がないものであった。
若いころの私は人間の意志の力というものにほとんど関心を持たなかったし、そこに価値を与えることなどほとんど考えもしなかった。
まして「有徳と不徳との間に差別を設けず」に純粋に意志や情熱の強度だけで人間を見たり、評価するなど思いもよらなかった。
有徳な人間は別として、不徳な人間の意志の力や情熱の強度に何の価値があるというのか、そう思う単純極まりない若者だった。
だから、本当は文学や芸術なども解っていなかったのだと思う。実に私は単純、素朴な人間だった。
あくまでも「有徳な」人間や「優れた人物、純粋な観念の持ち主」の正義が実現されなければならないし、いずれそれは実現されるだろう、少なくとも世の中の歴史は少しずつそうした方向に向かっていくだろう、単純にそう信じていた。
だが、21世紀になっても世の中は良くなっていないし、むしろ反対に終末的な様相が世界の各地で見られるようになった。
私は、この本を読んで、人間の意志の力や情熱の強度というのは、この世の中を生きていく人間にとって非常に重要なもの、少なくとも決して無視できないものだと確認したような気がした。
そして、長い間、私にかなり欠けていたのは、有徳であろうが不徳であろうが、これだったのではないかと感じた。すなわち意志の力と情熱の強度だ。
それこそ有徳不徳に関わらず、その絶対値の大きさは決して侮ってはならないものである。
この本の味わいはあくまでも苦い。だからこそ私にはフーシェのような人間の存在をもっと早くから知っておく必要があった。
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以上は、別のブログに以前、私が書いたものだ。今、年齢をさらに重ねて、私はどうなったか。
私は、その後も年齢ばかりを無為に重ねた感が強い。私はあまり変わることができなかった。
人間の意志の力と情熱の強度を最高度に発揮できるのは、肉体も精神も若いとき、あるいは壮年期の頃だろう。おそらく、あまり頭の中だけで考えないときのほうがきっとよい。そんな気がする。
年老いて何かがわかったと思ったとき、そのときもまだ頭の中だけで単にそう思っているに過ぎないのかもしれない。というのも今や肉体と精神がその強度について行けなくなっているからだ…