中村彝の肖像画論
中村彝は、「エロシェンコ氏の肖像」や「田中館博士の肖像」、さらに彼が愛した新宿・中村屋の娘、相馬俊子をモデルにして幾つか描いた作品(この場合、肖像画と狭く限定するよりも広く人物画と呼んだ方がよい作品もある)などがあり、近代日本洋画史の中で最も優れた肖像画を残した画家の一人と言えるだろう。
だが、その中村彝の肖像画の中には、生きたモデルを前にして描いた作品と、あまり本意ではなかったが、写真を基にして描いた作品がある。
実際、彼は病のこともあって、写真から肖像画を描いたり、構想したりすることも幾度となくあった。そうした作品には、彼の様式発展や作風変遷の中でどのように位置づけるかが難しい作品もある。(展覧会の会場で何処に展示すれば違和感がないか、その判断が難しいことがある。)
彼が写真に依拠して描いた作品は、画中にその断り書きがフランス語で記されていたり、書簡などでその経過が分かるように記されていることがある。彼自身も、こうした作品をある程度特別なものと考えていたのかもしれない。
その中村彝が、肖像画と写真との関係についてどのように考えていたか、それを教えてくれる重要な書簡がある。
それは、『藝術の無限感』には収められていない書簡で、彼より2歳若い白河の芸術愛好家であり、彝たちの支援者であった伊藤隆三郎に宛てた大正13年4月の手紙(※)である。
そこで彼はこのように書いている。(以下、漢字や仮名遣いなどを読みやすい現代の表記に改めている。)
「ただ俗悪な写真師の修正によって甚だしくモデルの特性を傷(つ)けられた写真を基にして肖像画を描く場合、果して日頃の腕前を見せ得るかどうかは問題ですが、これは恐らく誰に頼んでも充分な出来栄えを期待することは出来まいと思われます。概して生きた本人を前にして肖像を描く場合には、対象に対する画家の洞察とその表現力に圧せられて第三者がとやかく言う余地がなくなるものですが前に言ったような悪い写真の場合には、画家の主観力が強く働き得ない為めに、その空隙に乗じて兎角いろいろな注文が依頼者の側から出度がるものです。然しこれは全く愚かなことで絵画に於ては、画家の直観によらない正確はあり得ないのですから、かく他からの指揮に盲従して筆を入れる時、肖像は益々悪る(く)なるばかりでしょう。」
彝は、おそらく生きたモデルと生身の画家との直接的な真剣な対決によってこそ真の肖像画が成立すると考えていたのだろう。そうした場合、そこに第三者が入り込む余地はなくなるのだ。
第三者が、時にはモデル自身がする、このように描いて欲しいとか、あのように描いて欲しいとか、もっと偉そうにとか、もっと上品にとか、本人に似ているとか似ていないとか、そうした判断は要らないのである。
まさに、「絵画に於ては、画家の直観によらない正確はあり得ない」のである。なぜなら、「画家の直観」は、生きたモデルの人格と生身の画家の人格との対面、いや時には激しい対決の結果であり、画家の洞察そのものだからである。
だが、これはモデルや画家の人格が高いとか低いという問題ではない。優れた肖像作品は、モデルの優れた人格と画家の優れた人格の対面、対決がなければ成立しないというのではなく、その対面、対決が必ずや真剣なものでなければならないということである。それが真剣なればこそ、「対象に対する画家の洞察とその表現力に圧せられて第三者がとやかく言ふ余地がなくなる」ということではないか。あとは、すべてが「画家の直観」と技量に任される。いや、そうするしかない。そういうことだろうと思う。
※この手紙は『藝術の無限感』に収められていないが、既にこれを全文紹介している冊子がある。しかし、そこでは、この小考で「正確」と読んでいる部分を「正繪」と読んでいる。
また、その冊子は「長谷部君」を「長太郎君」と読んでいる。「長太郎君ハ大変で生活の不安ニ追はれて」は、「長谷部君ハ相変らず生活の不安ニ追はれて」と読むべきだろう。
彝の伊藤隆三郎宛の手紙の中で広瀬嘉吉の名前と一緒によく出てくるのは長谷部英一の名前であり、長太郎という名前は、何処にも出てこない。