中村彝と漱石の『硝子戸の中』
中村彝の小さな作品に「新宿郊外」と題されるものがある。制作年については、判然としない点もあるが、一般に年記を1916(大正5年)と読んでいる。
年記は、作品右下にあり、フランス語でLE1er 9bre(9月1日)のように見える日付まで書いてあるが、消えてしまったのか、画中の署名は見当たらないようである。
この作品で、彝は何を描いているのか。一見すると、焼け跡の現場のような風景だが、おそらくそうではないようだ。
しかし「焼け跡」と題される写真図版で確認できない作品もあるはずだが、それはこの作品を誤って指していたのだろうか。
「新宿郊外」は、おそらく「焼け跡」の風景ではなく、既に複数の文献で指摘されている通り、戸張孤雁の証言にある「硝子窓を通して見た小品の風景で、煙突なぞが硝子の粗悪なる為に彎曲して見えるのをそのまま描いたもの」が、これに当たるのだろう。
しかし、それにしても彝はなぜ、わざわざ「粗悪なる硝子」で歪んでいる風景を描いたのだろうか。
画家は硝子窓を通して見た風景に何らかの感興をもって筆を執ったのだと思う。もちろん、眼に飛び込んできた風景を捉える即興的な技術の鍛錬のためでもあったろう。
さて、中村彝と夏目漱石には、直接的な関連は、これまで認められていない。ただ、寺田寅彦の名前が「田中館博士の肖像」の制作に関連して文献に出てくるだけである。
その寺田が彝の谷中の荒涼たるアトリエ兼住まい(「ドレアリー」と形容されている)を訪れた印象を語る文章には、漱石の名前も出てくるが、そこに彝と漱石との直接的な繋がりを示すものは書かれていない。
夏目漱石の『硝子戸の中』は、彝がまだ大島に滞在していた大正4年1月から「朝日新聞」に連載された。その書き出しはこうなっている。
「硝子戸の中(うち)から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実の結(な)った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱などがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てる程のものは殆んど視線に入ってこない。」
このように本の冒頭に「無遠慮に直立した電信柱など」とあり、彝の「新宿郊外」でも粗悪なる硝子戸から歪んで見える電信柱を描いているが、果たして画家が大島滞在中、またはその後に、『硝子戸の中』を読んでいたかどうかまでは分からない。
しかし、大正期の四、五年前後、同じような時代環境の中、季節は違うが、硝子戸の内側から外の風景を眺め、今日から見ると一見無愛想な《電信柱のある風景》だが、そこを漠たる風景として共通してスケッチしているところは、面白く、少しく注目していいかもしれない。
ただし、彝の小品には、電信柱も描かれているが、画面中央に目立って描かれているのは、戸張孤雁に従えば、煙突らしい。
これらの小さな共通点は、漱石も、当時の彝も、病床にあったことと無関連ではなかろう。ある種の縛られたような状況の中から、すなわち、象徴的な意味でも、現実の風景でも、硝子戸の内側の世界から外の世界を見て、一つの作品を生み出しているのだ。
この点、彝が大島から中村春二に出した書簡(大正四年三月)にも興味深い表現が見られる。それは春になりつつある生命力に満ちた明るい外の世界と、「自分一人は何時も暗い室の中に、床の中に縛られ、幽閉され、屈辱せられて、描きたくても、見たくても、ヂッと眼をつむって辛抱して居なくてはならない」内面世界とを鮮やかに対比した文章である。
「室の障子を開けると紺青の海がキラキラ輝いて居ります」と、ここでは、硝子戸ではないが、紙の障子によって仕切られた外部の世界と内面の世界とのコントラストが強烈である。
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漱石の『硝子戸の中』には、実は「ヘクトー」という名の犬が死んだ話や、「ある程の菊投げ入れよ棺の中」と漱石が詠んだところの大塚楠緒(東大教授の美学者、大塚保治の妻)の話などが出てくる。
『硝子戸の中』で、このあたりは、死について漱石が思いを巡らせている記述が濃厚であり、犬の名前の「ヘクトー」も、おそらく偶然的なものではなかろう。
その名は既に死に関連していたのだ。なぜなら 『イーリアス』の中で、トロイア方の王子ヘクトールは、確かに英雄であったが、死すべき運命にあったからだ。そして、その死骸を、父プリアモスが敵陣のアキレスに乞うて、引き取る場面があるのだが、その主題は、美術などにも見出せるものである。(例えばカリエールの作品に、「アキレウスにヘクトールの死体の引き渡しを乞うプリアモス」という作品がある。)
そうした中に、漱石が死というものについて、こんな感想を述べている興味深い章(二十二)がある。
「他(ひと)の死ぬのは当たり前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません。」
そして、そこに「大学の理科に関係のある人に、飛行機の話を聴かされた時に、こんな問答をした覚えもある」(※)とあり、やはり自分の死と他人の死とに関する同じテーマの問答に作家は拘っている。
自分の死も、他人の死と同様に絶対でもあるにもかかわらず、なぜか容易には信じられないものなのである。だがそれはなぜかというのがここでの漱石の問なのであった。(続く)
(※)ここに出てくる「理科に関係のある人」とは、「飛行機の話」をする人だが、それは彝がその肖像を描いた田中舘博士のことではなかろう。漱石の問に対しての丁寧な答え方は、答える者が、漱石よりも年下の者であることを示しているからだ。むしろ、中村清二に従って彝の谷中のアトリエに、博士の肖像画を依頼に行った寺田寅彦あたりを想像させる。