【エッセイ】天国へ旅立った祖父へ。
「やっと、旅立てたね。」
そう伝えることは、不謹慎だろうか。私はそうは思わない。理由は2つある。
一つ目に、亡くなる前日の祖父が、あまりにも辛そうだったからだ。
病室に入った時、「近しい親族全員が病室に着くまで、生きていられるのだろうか」そんな心配をする程だった。
誤嚥性肺炎によって、呼吸が苦しい。痰が絡んで咳をしようにも、力が弱すぎて満足に咳をすることも出来ない。
ハァハァハァハァ‥
ゔ〜〜〜、あ゛〜〜〜
こんな苦しそうな中でも、必死で声を絞り出して
「おせわになりました。」
「ありがとう」
と子や孫たち、一人ひとりに伝えてくれた祖父は偉大だ。
お世話になったのはこちらだ。「ありがとう」もこっちのセリフだ。
その時のことを思い出して書いていたら、涙が溢れて止まらないじゃないか。ちくしょう。
もう一つに、天国には祖父最愛の祖母がいる。
「天国で会えたかな?やっと会えたね。良かったね。」
私は祖父の訃報を聞いた時、そう思った。
2人は相思相愛だった。10年前、祖母が他界してからずっと、祖父は寂しげだった。祖母の仏壇の前に座り
「〇〇〜、〇〇がいないと、寂しいよ〜。」
と言いつつ、
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏‥」
と念じる祖父を毎日のように見るようになった。
祖母の遺品整理をしていた時には、ノートの切れ端に、祖母のこんなメモが残されていた。
「私はただ1人の愛する人と結婚し、幸せです。」
祖母は俳人だ。もっともっと素敵な文章だったけど、再現しきれず申し訳ない。
とにかく、祖母が祖父のことを本当に愛していたこと、それが伝わる文章だった。
70才でもスキーをし、90才までゴルフを嗜み、100才になっても食欲旺盛、スポーツも絵も上手だった祖父は、我が家の自慢の人だ。
「いつか、ひ孫で野球チームが作れるようになるかもよ(笑)」
なんて言っていたら、本当に9人のひ孫に恵まれたね。その全員と元気な姿で会ったことがあるなんて、すごいと思う。
お葬式だってさ、家族葬にしたのに30人以上来るんだって。
「お花を出したい」って言ったらさ「他に出してくれる人が沢山いて、置けるスペースがないから」って断られちゃった。祖父の人徳には参る。
晩年の凄さだけではない。現役で働いていた頃も凄かったんだよね。
「この駅は、祖父が設計したんだよ。」
そう伝え聞いてきた建造物の数々も近年の再開発でことごとく姿を消した。もう祖父が定年退職してから40年も経つのだ。その40年のうち、20年を一緒に住まわせてもらっていた。
いつも大家族の中心にいた祖父。ちょっと我儘だけど、ユーモア溢れる祖父。
手品やコマ回しが得意だったね。家にビリヤード台をおこうとしたけど、キューの長さ的に無理だった話は鉄板だったね。
ビールを飲んでご機嫌になると、ウクレレも弾いてくれたね。版画も上手で、料理も出来て、あれ?祖父に出来ないことってあるのかな?
何でだろうね?祖父と祖母は多才なのに、何故か息子である父や、孫の私は全然そんなことなくて、不思議だったよ。
ちょうど、100才。9月の上旬までは元気で、こんなにすぐ容態が悪くなるなんて、思わなかった。
長生きしてくれた祖父。だから「いつかは」という、そんな心づもりは出来ていた。それでも、悲しいものは悲しいよ。涙も出るよ。
でも、もう肺炎の苦しさからは解放されたよね?
今はもう、楽になれたかな?
そして、最愛の祖母には会えたかな?
それが一番、嬉しいね。
やっぱり2人は、セットじゃなくちゃ。
だけど。だけどちょっとだけ、今だけ、泣いても良いかな。
お葬式で、しっかりお別れをしたらさ、また頑張るから。
今まで、ありがとうね。
沢山お世話になりました。
安らかに、安らかに、お眠りください。
こちらの呟きに対し、沢山のお悔やみの言葉をいただき、本当にありがとうございました。
地域柄、葬儀はまだなのですが(火葬場が混み合っていて大体1週間ほど待たされる)このエッセイを書くことで、私なりの心の整理がついてきました。
noteに頂いたコメント等もほとんどお返しできてなく、大変申し訳ございません。
実家と自分の家を往復するバタバタした数日でしたが、それも落ち着き、後は式の日を待つだけです。
このエッセイを追悼に変えさせていただき、少しずつnoteの更新を再開させていただければと思います。
どうぞよしなに。
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