理系の税金泥棒が、書く仕事をしている。 #想像していなかった未来
私は、某国立大学の理系出身だ。でも、現在はライターとママをしている。と言ってももちろん、最初からライターを志したわけではない。このエッセイでは、
第一章:理系女子の選択
第二章:体調不良と新たな道
第三章:子育てとキャリアの両立、そして発達障害との出会い
第四章:書くこと、そして未来へ
と4つの章に分けて、紆余曲折した私のキャリアから「どんな道を選んでも、未来の自分に繋がっている」とお伝えできたら、と思っている。
第一章:理系女子の選択
大学卒業時、99%の同期たちは大学院に進学した。でも、私は就職を選ぶ。社会で働く方がやりがいがある。自分の強みも活かせる。そう思っていた。
それに、早く結婚して、ママになりたかった。これは私の母からの洗脳のようなものだ。
「20代のうちに子どもを産んで、お母さんは楽だったよ。子どもを産むなら、早い方がいいよ。」
こう言われ続けて育った私にとって、社会に出るのが24歳というのは遅すぎるように感じた。24歳とは、私の母が結婚した年だったからだ。今なら「そんなに焦らなくても良かった」とも思うけど。
そんな気持ちを持ちつつ、決まった就職。大手の製薬企業に内定をもらっていて、働き始めることにワクワクしていた。しかし、そんな私にこんな言葉をかけた人がいる。
「税金泥棒だね。」
国立大学は、学費が安い。それは、税金によって補填されているからだ。「税金で教育を受けたにも関わらず、その教育を活かさずに就職するとは何事だ。」そう言いたかったのだろう。
悔しかった。
急に、恥ずしくなった。
OBが言う税金泥棒も、一理あると思ったのだ。税金を遣わせてもらっている以上、もっと真剣に勉学すべきだったと後悔した。一方で就職とは言っても、自分の専攻の延長線上にある企業であり「税金泥棒」とまで揶揄しなくても良いだろう、と憤る気持ちもあった。
何はともあれ、自分が決めた道。製薬会社で「患者さんのために」誠実に働こうと決意を新たにした瞬間でもあった。それが、私が社会で出来ることだ。
第二章:体調不良と新たな道
就職してからしばらくは、順風満帆だった。研修期間には表彰もされ、思いがけず大きな病院の担当になった。しかししばらくして、私は体調を崩す。生理痛が酷すぎて救急車で運ばれる他、過敏性腸症候群(IBS)で常にトイレのことを気にしないと生活できない状況だった。何もないのに、ハラハラと涙が出てくる時もあった。
この時期、私は自分の人生について色々考えた。そして、別の道を探したいと思うようになっていた。自分のロールモデルとなるだろう先輩の女性社員が、
「仕事、辞められなくなるよ!お給料が良いから。やっぱりお金でしょ!」
「子どもに冷凍のたこ焼きだけ出して、また仕事に戻ってきたの!」
という姿に、自分の価値観とは少し異なるように感じたからだ。
営業現場ではなく、本社勤務なら価値観と働き方が違うかもしれない。やりがいの面でも”誰かのためになっている”とダイレクトに感じられる職種につきたい、と奔走した。
社内のCSR事業である東日本大震災の復興ボランティアに泊まりがけで参加し、CSR事業部への転属希望を上司に相談した。そんな私の相談は
「営利企業なんだから、やっぱり利益を出さないと。CSRなんて行くもんじゃない。」
と一蹴された。ならばと、会社のボランティア休業制度を使って青年海外協力隊に参加しようかと試験を受けた。
ただ、この選択は私を悩ませた。2年間アフリカに行くとしたら「婚期を逃すかもしれない」という恐怖があったのだ。はっきり言って私の中では「ママになる」というのが、1番の願望だった。時代錯誤かもしれないけどね(笑)結局、最終面接で補欠合格だった私は、そのまま青年海外強力隊へ行くことはなかった。
そんな中、一つだけ続けていることがあった。ヨガだ。体調が悪すぎて父の還暦祝いもドタキャンするほどだったが、ヨガのレッスンは通っていた。行けない日もあったけど。ヨガをやると、心身の不調も少しマシになるようだった。
そして、働きながらヨガインストラクターの資格を取得した。さらに、退職も決意。そんな私に、当時付き合っていた彼氏がプロポーズしてくれた。後から聞いたら、放っておいたら「アフリカに行ってしまいそう」と焦り、プロポーズをしてくれたらしい。まぁ、補欠合格だったから行けなかったけどね(笑)
第三章:子育てとキャリアの両立、そして発達障害との出会い
幸せの絶頂だったけど、また新たな悩みができた。ヨガインストラクターとして仕事を増やしたい。でも、結婚したから妊娠するかもしれない。夫の転勤もあるかもしれない。
そこで私は、ヨガを指導する傍、ライターの仕事を始めた。ライターなら、妊娠出産、転居の影響を受けにくい。ヨガの効果を検討した研究論文を翻訳し、分かりやすく記事にまとめ、大手のヨガメディアに提案してみた。すると、ライター未経験にも関わらず、採用してもらった。これが私のライターとしてのデビューだ。
その後も、友人からの紹介などで、記事を書かせて頂ける機会が増えた。そして結婚して半年で、夫が転勤する。ヨガインストラクターとして請け負っていた仕事は全て振り出しに戻った。新たな地で、どう仕事をしていくのか?また悩んだ。だって私は、ママになりたい。すぐに妊娠するかもしれない。
結局、ホットヨガスタジオで受付の仕事と、少しレッスンを担当させてもらうことになった。「レッスンの仕事をもう少し増やしたい。いや、妊娠するかもだから、これくらいでいいか。」そんな悩みを持ちつつ、妊娠もせず、キャリアも積めずに時だけが過ぎていった。
どうしてもママになりたい。だから、不妊治療に進んだ。「次がダメだったら、体外受精をしよう」というタイミングで、待望の赤ちゃんが来てくれた。ちょうどコロナ禍で、ヨガを指導する仕事が全くなかった時だ。ヨガスタジオはこのタイミングで退職させてもらった。
幸い妊娠経過は順調。元気な男の子が生まれた。妊娠中や産後も、ライターの仕事は少しだけど、続けられていた。本当にありがたいことだった。社会との関わりがほぼない私にとって、貴重な関わりだったし、お役に立てることは単純に嬉しい。
そして、息子が1才を過ぎた時、2人目の不妊治療を考え始めた。1人目であれだけ時間がかかった妊娠。2人目だって苦労するに違いない。と思いきや、あっさりと妊娠。つわりに苦しみ始めた頃、息子の発達に違和感を覚え始めた。
まず、発語がない。「ママ」の「マ」の字すら言わない。一緒にお散歩をして「ねぇ見て!鴨さんがいるよ!」なんて言っても、息子はてんで違う方向を見ている。さらに、おもちゃをとって欲しい時に、大人の手をとって「おもちゃをとれ!」とアピールしてくる。最初は「可愛い」と思っていたその動作も、調べるとクレーン現象と言って、自閉症の兆候の一つなんだとか。
発達障害かも?と思い調べると、出てくる出てくる。息子とぴったりの症状が。
それでも1才半検診で「個人差があるから、心配しなくて大丈夫」と医師から言われた。検診ではただ1人、釣られた魚のように大暴れして泣いていて、やっぱり絶対どこかおかしかったけど。
その後、娘が無事に生まれた。その時の息子の赤ちゃん返りと言ったら、すごかった。息子に母乳をやりつつ、娘にミルクをあげる、なんてことをしていた。それ以外に、この2人のワンオペ育児を乗り切る方法を思いつかなかった。
さらに、この時の息子は、体調も崩していた。風邪が治らない。咳が止まらない。病院に通っているうちに「息子くん、喋る?」とかかりつけ医に気付いてもらえたのだ。
「そうなんです、言葉の発達も気になっていたんです。でも娘の出産に、息子の体調不良に、それどころではなくて…」
この時、息子は2才5ヶ月。私がいない時に、ママを求めて発する「マーーー」という泣き声と「頂きます」の代わりに「バッバッバー!」と言うくらいだった。もうこの頃には、私は発達障害を確信していた。むしろ、早く診断されて支援に繋がりたかった。そして、2才9ヶ月で発達障害の一種、自閉症スペクトラムと診断され療育に通うことになった。正直に言って、ホッとした。
ただでさえ大変と言われる2才差育児だ。それに加えて上の子の発達に難あり、となったら本当に大変だ(笑)
第四章:書くこと、そして未来へ
そんな時期の私を支えたのが、やっぱり「書くこと」だった。仕事を請け負う余裕はなかったが、noteで書くことを再開していたのだ。そのうち、発達障害児の先輩ママさんにアドバイスをもらったり、励ましてもらったりして、徐々に元気を取り戻していった。
そして、息子が3才を過ぎた頃、再び仕事として書くようになった。仕事を請け負っていなかった時も書き続けたことが、仕事再開へのきっかけとなってくれた。
こうして理系の税金泥棒と揶揄された私が、書く仕事をしている。こんな経験をした私が、キャリアに悩んでいる方にお伝えしたいことがある。
「過去に囚われるな。でも、過去の経験は活かそう!」
ということだ。
「理系の大学に行ったから、専攻を活かした職種につけ」
「良い大学を卒業して大企業に入ったのに、辞めるなんて勿体無い」
「ヨガインストラクターなんて食べていけないよ」
色々、言われてきた。でも、過去に囚われないで欲しい。大切なのは「あなたがどうしたいか」である。
全くの畑違いの分野で挑戦したくなった時、過去の経験が無駄になるような気もするかもしれない。でも、そんなことはない。むしろ、稀なキャリアを歩んでいるのであれば、それを武器にするといい。
私も、会社員時代やヨガの経験は、決して無駄にはなっていない。noteで連載している発達障害とヨガの研究を和訳するプロジェクトは、製薬会社で働いた経験と、ヨガを指導をした経験と、発達障害児を育児した経験がなければ出来なかったと思う。
どんな道を選んでも、自分らしく生きていくことができる。そして、過去の経験は、必ず未来の自分につながっていく。困難な状況に直面しても、諦めずに一歩を踏み出す勇気を持つこと。そして、どんな自分でも受け入れることができる強さとしなやかさを身につけること。それが、私がこれからの人生でも大切にしていきたいことである。
理系の国立大学に進学した時には思いもよらなかった今の自分の姿だけど、私は、今すごく幸せだ。