わすれた
物忘れが甚だしい。
ほんの二週間前に読んだ本を読み返しているのだが、章のタイトルを見ただけでは内容を思い出せない。読み進めていくと、そうそう、そうだった、と思う部分と、「あれ?こんなだったっけ?」という部分がある。完全に記憶から抜け落ちてしまっているのはなぜだろう。
『フィフティ・ピープル』は、韓国の作家チョン・セランの小説で、タイトル通り、50人の登場人物のドラマが章として一つずつ描かれている。つまり、50人の物語(実は51人)なのだ。
こちらの章で主役だった人が、別の人の章では脇役、いや脇役ですらない、通行人やお店の人として登場する。
人生だなあ、と思う。あなたの人生ではあなたが主人公、と誰かが歌っていたが、つまりわたしは誰かの人生の脇役であり、通行人であり、もしくは風景の一部として存在するにすぎない。
人のドラマに割り込んでいって、その座を奪うことはできないのだ。そう考えると、すごく楽。気楽だ。わたしはわたしでさえあればいい。無理して誰かと張り合うこともないし、どうしてわたしはあの人のようになれないのだ、とコンプレックスを抱く必要もない。
だって、別の人だから。
もちろん、誰かと切磋琢磨することは無意味ではない。誰かに近づこうと努力するのも立派なことだ。尊敬する人の真似をしてもいいし、時には無謀と思われる冒険をしてもいいと思う。みんなそれぞれの幸せに向かって頑張ればいい。ただ、自分のやるべきことをやり、自分とは何かを知り、自分を生きることをわすれてはいけないのだと思う。それを不満に思うなら、自分が変わるしかないのだ。
だが、自分が変わることは他人を生きることとは違う。他人の偽物になるな。本物の自分になれ。と、この本を読んで思った。実はみんな、主人公であり、誰かの風景なのだから。
…というようなことをもしかしたら何日か前に書いたかもしれない。もう記憶力に全く自信がない。
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