私の生きる意味
こんにちは。
崎川です。
さて、今日は私の過去について少しお話します。
昔、博士課程前期(修士課程)でアカハラ・セクハラにあっていました。
耐えられず、修士号取得後、ドロップアウト。
大学教員になりたかった私は、意図せずして実務に飛び込みます。
ハラスメントで人間不信になっていた(いる)ため、職場において、とにかく「群れる男性が怖い」。
どの職場も恐怖で動けなくなるなどの症状を発し、転職に転職を繰り返しました。
一時期、引きこもりのようになっていたこともあるんです。死にたかったですよ。本当に。
「こんな風になるために国立大学大学院まで進んだんじゃない。お母さん、お父さん、ごめんなさい。」と布団のなかでずっと思ってました。
「人生においてやり残したこと」を考え始めた30代半ば。どうせ死ぬなら博士課程後期にチャレンジして死にたい。
博士号を取れるなんて誰も保証してくれないけれど・・・。
そして、入学して待ち受けていてくれたのは、私を「人間扱い」してくれるあたたかい主指導教員とゼミ生たちでした。
驚きました。「私はここに居ていいんだ。」って思ったのです。
そんなこと、家以外でいつ思っただろうか。久しぶりでした。
新しい知見を発見し博士号を取得できたこと、大学教員のポストを得ることができたのは、はっきりいって、運です。
しかし、その運をつかめたのは、博士課程後期の主指導教員とゼミ生が与えてくれた心理的安全性があったからです。
「人に人として接する」態度をとってくれたからです。
「君なら大丈夫。」と。
「できないとこや苦手なとこもあるみたいだけど、あなたなら、これはできたでしょ。だから信じてる。」と。
今でも、昔のアカハラ・セクハラを思い出し、目覚めると泣いていることがあります。しかし、私が世に残せること、特に若い世代に残せることはまだあると思うのです。
彼ら・彼女らの一部は私を信じてくれている。
だから、それに対して無償の愛(時に厳しく)で応えるつもりです。
「君なら大丈夫。」と。「できないとこや苦手なとこもあるみたいだけど、あなたなら、これはできたでしょ。だから信じてる。」って、伝えていきます。
彼ら・彼女らの生きる未来が少しでも良くなるように指導していきます。
今日も、何とか生きています。
主指導教員とゼミ生たちが教えてくれた、生きる意味とともに。
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