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50歳過ぎてウエデイングプランナーに!!リライト版

人生100年時代とは言うけれど

ある程度の年齢を過ぎると、体力も気力も無くなる事
当然の様に感じます。
新しいことを挑戦するのは、覚悟も勇気もいること。
そして不安もあります。
挑戦した先が、成功とは限らない。
失敗も当然あって然りだと思っています。
それでも諦めないのは持って生まれた性格なのか。
心の底から駆り立てるものがあって、説明できないのだけれど
気がつくと私はウエデイングプランナーになっていました。

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司会者が始まりだった

私とウエデイングのつながりは、20年以上前のこと。
司会者としてデビューしたのがきっかけです。
ところが、当時は結婚式などに全く興味がありませんでした。
結婚したばかりの私でしたが、自分自身の結婚式、披露宴に対しては
良い思い出がなく、むしろイマドキの言葉で言う
黒歴史になってしまいました。
そんな人間が、良い感情など持ち合わせることもなく
まして、結婚式や披露宴の司会者のイメージは、悪かったのです。
絶叫系と言って良いのかな、大きな声で大袈裟で。
演歌調の話し方。そのイメージがしっかりとありました。
そのイメージもあって、司会者だけにはなりたくなかった。
しかし、喋りの仕事は、想像以上に厳しい世界です。
まして、32歳の時に、養成所に通っていた時点で、遅いスタートでした。
養成所時代にはナレーターのオーデションに何回も挑戦してみましたが、
受かることは決してありませんでした。
なんとなく向いていないのかな、そう思った時に出会ったのが、
結婚式や披露宴の司会をしている女性でした。
その時に、喋りの仕事を経験する事が大事だと、やるだけやってみようと
とりあえず、見切り発車で決めた私。
大きな理由もなく、堅い決意もありませんでした。
とにかく仕事をしてみたい、その当時はネットなどない、探すのもの一苦労です。
そこで、電話帳から探したのが地元の司会事務所だったのです。
思い切って電話をして、面接してもらい、なんとか合格。
それが司会者としてのスタートです。
司会者としてデビューしてからは、司会を上手に行うことだけ頭にあって、
ウエデイング業界そのものは、どうでもよかったのです。
しかし、10年経ち、ウエデイングプランナーという職業が出てきてから
業界全体の雰囲気が一気に変わったのです。
それまでは、司会者の立場は非常に高く、立ち位置もしっかりとしたものが確立されていました。
ところが、ウエデイングプランナーが主体となった業界は、司会者の立ち位置そのものを揺るがすことになったと、そう思わざるおえない状況が続いたのです。


ウエデイングプランナーは別格の存在

ウエデイングプランナーは比較的新しい仕事です。
驚かれるかもしれませんが、司会者デビュー当時はありませんでした。
宴会担当というカテゴリーでしょうか?
私が結婚したホテルでも、宴会予約の方が担当してくださいました。
しかし、何がきっかけだったのでしょうね。
ウエデイングプランナーという職業が出てきたのは
1990年代後半のこと
あるテレビドラマがきっかけで、トレンドの職業になったのです。
それがこのドラマです。
【ウエデイングプランナーSWEETデリバリー】
このドラマのインパクトは格別でした。
ウエデイングプランナーはかっこいいって。
そしてウエデイング自体を動かすのは
ウエデイングプランナーそのもの。
ハウスウエデイングという言葉も出てきて、
ゲストハウスの全盛時代になったのです。

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そしてウエデイングプランナーは、ウエデイング業界では別格の存在になりました。
プランナーが全てを決めて、動かすのですから
プランナーの言う通りにきっちり行うことができて
初めて認められる。
少しでもミスを犯したり、理解していなかったり、反発をしてしまったら
ダメな司会者のレッテルを貼られてしまうのです。
かつては、司会者主導で行っていた進行表の作成は
ウエデイングプランナーが作成することになりました。
つまり、司会打ち合わせの時には、ほぼ出来上がっていて、
進行内容を変更しようとすれば、怒られる、理由を求められる、
新郎新婦の意思だと伝えても、認めてもらえない状況になって行ったのです。

私は当時、業界でもトップを走るゲストハウスで司会を担当していました。
その時の経験は、今でも活かされていますが、精神的なダメージは、
想像以上のものでした。
胃潰瘍、十二指腸潰瘍にもなり、それでも仕事をやめられなかったのです。




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