感覚の孤独
マスクの着用が強制ではなくなって最初の春。
久々に外気の香りが濃く感じられる。
早く咲いてしまったのか、アベリアと桜の甘くて少し苦い香りと土からわき立つあたたかな陽の香り。
この土臭くてほのかに甘い香りがするのが春の匂いなのだったと思い出す。
ずいぶん前に小学校の先生だったかに
「空気って季節によって匂いが変わりますよね?」
と聞いたら
「独特な感性をしてますね。私には全て同じ香りに思えます。」
と返されて、自分の持っている感覚がみんなに共通のものではないことを知り、驚いたことを思い出した。
なんなら午前と午後でも空気の匂いは明確に違う。でもこういう自分が持っている感覚を人に共有するのはとても難しい。目に見えていないものなら尚更。
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昨年、自分の感覚器官が狂わされる出来事が2度あった。
1度目はコロナで嗅覚を一時的に失ったこと。
2度目は突発性難聴になり、右耳の聴こえ方が3ヶ月ほどいつもと違う感覚になっていたこと。
嗅覚がなくなる感覚は風邪で鼻が利かなくなるのと同じようなことなのだろうと思っていたのが大きな間違いだった。
まずコーヒーの異常なまずさに驚く。味覚は残っていたから分かったのだが、あれは香りがなければただの苦い汁である。
そして、今まで風邪で鼻が詰まっていても完全に鼻が利いていなかったわけではなく、微弱ながら香りを感知していたのだと知った。
嗅覚が味覚に与える影響の大きさを知り、嗅覚がないと世界の色彩の感じ方すら変化したような感じがした。見えている世界の彩度がワントーン下がったような。嗅覚は視覚とは関係のないものかと思っていたが、人はもっと深いところで様々な感覚器官を統合させながら世界を認知しているのだ、とそのときに分かったような気がした。
数日後に無事嗅覚が回復したとき、元に戻ったというよりは前よりもクリアに色彩が鮮やかに見えるような気がして驚いた。その驚きにも数日で慣れてしまって、完全に自分のふつうになってしまうのだけど。
感動や驚きは最初の衝撃に2回目以降が勝てることはない。
その時の衝撃も思い出すごとに薄れていくように。
映画やドラマのシーズン2がシーズン1を超えられないのと同じように。
聴覚が歪む感覚は視覚の感じ方というよりは身体の平衡感覚が狂わされたような感じだった。歩いていてもふわふわしているような、地に足がついていない、思考がぼやけて溶けていくような、独特な感覚だった。個人的には嗅覚をなくしたときより聴覚がぼやけた時の方が困ることが多かった。
人は聴覚で空間感を把握しているのだと実感したからだ。仕事で空間と身体感覚を扱っており、最終的に頼りになるのは自分の身体感覚で、その根幹が揺るがされたような気がしたからだ。言葉では言い表しにくいが、水平な地面を歩いていても斜面を歩いているような感じだった。
自分の中で少し感覚器官に違いが生じただけでも世界の感じ方がまるで変わる。
自分と他者となら尚更感じ方が違うのだろう。
きっと私はあなたが認知している世界とは全く別物の世界を生きていて、私たちは死ぬまでその景色を、感覚を、正確に伝えて共有することは叶わない。人は誰しも生まれてから死ぬまで自分の身体感覚に閉じ込められ、孤独の中を生きている。
前提が異なっているのにどの見え方が、誰から見た世界が正しく美しいのかと比べること自体が野蛮なんじゃないかと思えてくる。157cmが見る世界と180cmが見る世界すら全く異なっているというのに。
私は私の見ている世界を美しいと思えたらいい。
同じように、あなたが見ている世界もやはり同じように美しいはずで、それをジャッジする権利のある人間なんて存在し得ない。
高校生と大学入ってちょっとまでは比べること、競争することでしか成長できないと強く思っていたけれど、最近はそれが本当に馬鹿ばかしいと思う。
確かにそれでしか手に入れられないものもあるけれど。
自分の信じるもの、好きなこと、そして他者を蔑めることなく尊重することで自分を成長させていけたらいい。
競争と勝ちにこだわることに対する小さな抵抗として。