走れ正直者〜人類最強の武器を手に入れるまであと◯日
横断歩道で信号待ちをしていたら、
少し前に立つ女性が、キャッと小さく叫んだ。
見ると、彼女の足元に、
名刺や紙幣やなにかのカードが数枚散らばっていた。
スマホケースを落としたようだ。
拾うのを手伝おうかと思ったけれど、
彼女ひとりでじゅうぶん手の届く範囲だったのと、
名刺やらを他人に見られるのはイヤかなと思い、あえて何もしなかった。
信号が青に変わったから横断歩道を渡ろうとすると、
背後から走る足音が迫ってきた。
足音の主は金髪の若い男性で、
追い抜きざまに、ジャケットのポケットから何かを落とした。
またかよ。今後はキミか。
「落としましたよ」と呼びかけようにも、
金髪くんは、すでにもう反対側の歩道近くにまで達している。
横断歩道に散らばる落とし物を見ると、
裸の交通系ICカードと、数枚の紙切れだった。
今度はさすがに目の前だし、
本人もいないから拾わざるを得ないなあと、
腰をかがみかけたら、横からさっと手が伸びてきた。
メガネをかけた若い男性だった。
彼は、ICカードと紙切れ数枚を拾い上げ、
「行ってきます」と告げ、走り出した。
横断歩道から続く先の歩道を見ると、
金髪くんはかなり先を走っている。
その後を追い、メガネくんが駆けていく。
走れメガネくん。
気づけ金髪くん。
追いつけメガネくん。
ふたりの若者が走る走る。
メガネくんが声をあげたのか、
金髪くんが振り返るのが、遠くに見えた。
どうやら間に合ったようです。
この時、自分のなかで、ひとつ、
はっきりとわかったことがありました。
他人の落とし物を走って届けるなんて世の中すてたもんじゃないな。
親切はしなくちゃいけないな。
利他的に生きなくちゃいけないな。
なーんてことじゃありません。
もっと個人的な、切実な問題です。
ああ、オレ、もう、走れない。
ってことです。
メガネくんが現れず、
自分ひとりだけが金髪くんの落とし物を拾ったとしても、
あんなふうには走れない。
走って追いかけるという選択は一ミリだって浮かばなかった。
あー行っちゃった、あとで正直に交番に届けよ。というだけでした。
で、気づいたのです。
もしかすると、人類にとって最強の武器は、
体格や腕っぷしや面構えや度胸なんかじゃなく、
走れるってことじゃないかと。
街で変な輩に絡まれても、
津波が押し寄せても、
ミサイル攻撃受けても、
走って走って、危険から距離を取ることさえできれば、
そのあとはなんとでもなるんじゃないか。
そう、安全地帯までたどり着ける体力こそが、最強の武器。
悲しいかな、自分にはもう、そんな武器はありません。
これは、逃げる、だけじゃなく、追いかける、でも同じです。
例えば自分が、
ひったくりとか、加害者を追いかけることになったとして、
どこまでもしつこく、いつまでもしぶとく、諦めることなく、
相手の体力が尽きるまで追いかけることができたとして、
そのとき相手よりも自分の体力のほうが上回っていたら、
持久戦に持ち込んで勝てるのではないだろうかと。
にしてもジョギング、のような走りじゃなく、
逃げる、追いかける、
という本気の走りって最後にしたのはいつだろう。
したとしても、
それはせいぜい50メートルから100メートルぐらいで、
それ以上の距離の全力疾走はしたことがない。
以前だったら、日常で全力疾走することなんてないし、だったけれど、
なんか最近そうとは思えない。
世界のあちこちでは、本気で走らざるを得ない出来事が頻繁に起きている。
だから、さあ、走ろう!
走って、人類最強の武器を身につけよう!
さくらももこさんも秀樹カンゲキも、ずっと前からそう歌っている。
♪〜ツィンツィンカムカムターボだぜ
♪〜ラッキーカクカムさ
♪〜足がじまんさ
♪〜ゴーゴー明日をつかまえろ
これまでの人生で、よし今日から走ろう、と前向きな気持ちを抱いたことは数知れず、しかし一日二日走っただけでもう終わり。
今日は寒い。暑い。
コロナが収まってから。
この仕事が終わってから。
やっぱ普通のスニーカーじゃダメだ、ジョギングシューズ買ってからにしよう。
とかなんとか、その都度、なんらかの言い訳を無理やり見つけ出して自分を納得させ、人類最強の武器を手に入れることを先送りにしてきました。
でもいつ何時、走らねば!の状況に遭遇するかわかりません。
よし、まずはTo Doリストに太字で書くのだ。
ジョギングスタート!と。