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ライ麦畑の崖っぷちで落ちそうになるまで続くゲームのなかで
魔女の乳首みたいにつめたかった。
J.D.サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)」のなかで真冬の冷たさをこう表現している。
どういうこと?
よくわかんないけれど、こういう引っかかりのある文章は、50年近く経っても覚えているから不思議だ。
真冬の冷たさを魔女の乳首に例えるんだったら、真夏の暑さもなにかに例えてあげなきゃ公平じゃない。
真冬ばかり例えて、誰も何も例えてくれない真夏の気持ちも考えたことあるんですか、なーんて正義のメッセージが届く前に先手を打っておこう。
とにかく2023年の夏なんてさ、ドラキュラだらけの満員電車に閉じ込められたみたいに暑苦しかったな、特に、
朝からスマホの画面には<外出は控えて>の通知がひょいひょいと表示される。
わかってます。わかってますって、外出は控えます。用事のない限りエアコンつけて家にいますって。
とにかく2023年の夏なんてさ、ドラキュラだらけの満員電車に閉じ込められたみたいに暑苦しかったな、特に、
トイレの個室が。
そうなんです、エアコンの冷気に守られた家のなかでも、トイレだけは灼熱の密室。
小(しょう)ならばまだ大丈夫。用を済ませてさっと逃げ出せばいいから。
でも、大(だい)の場合、本を持ち込む習慣がすっかり身についてしまっているので、そこは本来の目的+キリの良いところまで読書を楽しむという多目的スペースでもある。
個室に住まう喜び
静謐さのなかで
頁を捲る
それは許された者だけに
与えられた贅沢な時間
トイレは、いま、感動の高みへと進化する。
そんな贅を極めた時間が灼熱だなんて許さない。
ただ、ただ座っているだけなのに息苦しく、ごく自然に吸い込んだはずの酸素は喉の入り口に膜をはるように重く、肺になかなか届かない。
便座と接する太もも裏から臀部は、雨上がりのベランダでゴムスリッパに足を突っ込んでしまったあとのように、きもちわるさがまとわりついている。
こんな時思い出すのは、魔女の乳首みたいな真冬。
ちゃっぷいちゃっぷいとトイレに駆け込み腰掛けた、あの瞬間の安堵感を、思い出してしまう。
あ〜あったか〜い。
下半身からじんわりと生きる喜びを伝えてくれる暖房便座。
読書の時間を価値あるものへと高めてくれる暖房便座。
真冬に暖房便座が欠かせないとしたら、真夏には…。
そう、冷房便座。
なぜないんだ、冷房便座。
おしりだって洗ってほしい、おしりだって冷やしてほしい。
と、願うのも今だけ。
いつかはこのドラキュラだらけの満員電車もどこかの駅に停まる。
黒いマントの隙間をすり抜けホームに降り立つと、もうそこは秋から冬への乗換駅。
そろそろ暖房便座のスイッチを入れなきゃな、の思いは、いともかんたんに2023年災害級の暑さを上書きしていく。忘却の闇へと吸い込まれていく。
私たちはこんな上書きをずっとしてきた。
1980年代、夏のテレビコマーシャルの女性たちは小麦色の肌を惜しげもなくさらしだしていた。
マックロネシア人とかトースト娘とか高気圧ガールとか呼ばれた彼女たちは、ビキニのパンツの裾をひょいとめくり、メラニン色素の違いを強調していた。
さあみんな紫外線を全身に浴び、真っ黒に焼こうよ、って。
私たちはいつだって時代というライ麦畑で思いっきり遊んでいる。
時代が描き出したゲームのなかで、崖っぷちに気づかずそこから落ちそうになるまで走り回っている。
キャッチャー・イン・ザ・ライにキャッチされるまで、なんの疑いもなくゲームは続く。
永遠に繰り返されていく。