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近所の事件を何も知らない

数ヶ月前、家の近所で事件が起きました。
早朝からパトカーや鑑識、テレビ局や新聞の報道が集まり、いったい何事!と。

あとから分かったのですが、どうやら3箇所刃物で刺した跡のある女性が路上で血まみれになって倒れているのが発見された、とのこと。

女性は救急車搬送中にお亡くなりになりました。自傷の末だったとか。


いまこうして顛末を書きましたが、詳細を知ったのはその後のニュースや新聞記事からで、騒ぎの最中数時間はなにが起きたのか分からず、まったくの霧の中状態でした。

この時思ったのは、いちばん近くにいることは情報把握の絶対的有利条件ではない、ということです。


渋滞のど真ん中にいるのにその原因は分からない、すぐそこまで津波が来ているのに海岸まで行っちゃう、だからイライラし、だから巻き込まれちゃう。

結局多くの事故や事件は、誰かが情報を集めて整理して(新聞)記事や(ニュース)映像にしてくれてはじめて分かるってことなんですね。

近くにいるからといっていちばんに正しく分かるわけでなく、むしろ逆に憶測や推測が混ざって事実から遠ざかっていってしまう恐れもあります。


選挙もそんなところがあります。

ツイッター(X)などでは、いま投票所で並んでる、今までこんなに混んでたことなかった、などと盛んにつぶやかれていても、蓋を開ければいつも通りのひく〜い投票率。
いま自分が体験していることは切り取った些細な一部分に過ぎなくて、きっとどこか見知らぬ所に巨大な本質が隠れていたんでしょうね。


ネットてのは、自分の考えに近い人としかつながり合わないし、そういう意見のある場所にしか近寄らないから、井の中のなんとかと一緒で、それが多数意見だと思い込んでしまう危険性がありますね。

まだまだネット内には世論はない、ってことがわかっただけいいです。


この時代だってそうだから、それこそ昔はどうだったんだろう。

例えば壬申の乱や桜田門外の変や二二六事件だって、近所に住んでいた人たちは、なにやら近所が騒がしいぞ、おおぜい人が集まってきてるぞ程度で、その時そこでなにが起きていたのか分かってなかったに違いありません。

ひょっとすると、時代の転換期のすぐ近くにいたのに、一生何も知らないまま亡くなっていった人も多かったかもしれません。

ま、それはそれで知らなければ知らないほうがストレスたまらないし焦らないし、幸せだったかもと思えてしまったりして。

でも、今はそれもかなわぬこと。

誰々が何々を食べた、どこどこへ行った、誰々と一緒、という近況報告までもが続々とやってくる世界に身を置いているわけですからですから。


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