夢備忘録(0)
数分前、目を覚ましてしまいました。
今朝から正午ごろまでサーフィンをし、クタクタになっていたせいか、いつもよりかなり早い午後11時にベッドに潜りこみ、直ぐに眠りにおちました。目を閉じて数秒後、深い眠りに落ちたのですが、ある夢を見てしまい、午前2時すぎに目を覚ましてしまいました。
心理学者のフロイトやユングや…数多くの心理学者が夢について長年研究し語ってきましたが、脳科学の進歩もあり、人間が夢を見る理由が朧げながらも分かってきたような現代ですが、私の考えは、あるストーリーを組み立てることで、日中の起床時にすべての感覚で受け止めたあらゆる情報の整理、取捨選択をしているのではないかというものです。アニメ映画を見て、「やっぱり、正直に、そして優しくならないといけないよな」とエンディング・ロールを目で追いながら、ふと思うことで、社会生活を営むための規範を再確認するようなものに似ているようですが、夢の場合はそうした理性で日常生活を営む規範に身を置くのとは逆で、睡眠というそうした規範から離れ、規範から解放された「私」-この時点で、起床時の規範に束縛された「私」ではない「私」-が、脳内に現れ、一つの夢を見ることで、あらゆる情報の整理をしつつ生まれ変わるのではないかと考えています。これはあくまで私のごく私的な考えなので、進歩しつつある脳科学や心理学の専門家のとは異なるかもしれませんが、一つの仮説としてなんとなく正しいような気がしています。もちろん、これから軌道修正するとは思いますが。
さて、夢の話です。
情報整理の為のツールとして夢を見るのではないかと思っているわけですが、そのツールとなる夢のストーリーというか、ストーリーの土台となる文法が昔から同じようなものが多いのでは、と最近考え始めています。同じようなものでなくても誰も押しつけているわけではないので、自由にストーリーやストーリーの文法を屈指すれば良いのに、長年生きてきて、わりと同じようなストーリーや文法を使っているものです。
今夜見たのは、なかなか帰宅できずに困る夢でした。仕事でどこかに行った帰り、どうやら海外の、ヨーロッパあたりの空港なのですが、荷物を預けたあと、空港内をふらふら見物していると空港のバックヤードに彷徨いこみ、気づけばボーディング時間を逃してしまいました。慌てた私は空港近くの駅から自宅のある駅までの切符を買い(今どきPASMOやSUICAなのに、切符です)自宅のある最寄駅へと電車に乗り込みます。
海外の空港にも関わらず、その電車は北関東にある私鉄のようで、電車に乗りこんだ私は、車内の路線図を懸命にチェックしています。その路線図というのがとても複雑で、見知らぬ駅名が記載されているのもあり、どこをどうやって辿れば自宅のある駅に到着できるか、どんどん不安になってゆきます。そして、ある駅で乗客が「特急に乗り換えだ!」と降りて行くので、私もつられて降りるのですが、間一髪でその特急のドアが閉まり、私は見知らぬ駅のホームにとり残され、残念なことに普通の電車を待つことになります。
こうやって文字におこすと破天荒なストーリーラインを基礎にして夢を見ているのがよく分かります。
さっき見終わった、しかも、起承転結などあったもんじゃない夢をこうやって備忘録的に文字化して遺しておくのも、夢について考えるときに、何か有効な手立てではないかと思われたので、このnoteで時々、私が見た夢の備忘録を遺そうかと考えました。
特に、「わりとよく見る夢」を遺してみたいとも思っています。「私」という人格を造形するパターンがそこにあるような勘が働いています。例えば、海辺の古くて大きな日本家屋の二階で私は昼寝していました。その二階からはキラキラと輝く真夏の海が見えます。見えるといっても大きな窓からではなくて、幅10センチぐらいの格子窓と言えば良いのでしょうか。私がその隙間から海を見ていると、水平線の彼方から大きな津波が押し寄せてきます。その日本家屋の屋根まで覆うような津波です。私はどうやら3歳ぐらいの子供で、津波が押し寄せてくるのを、珍しい天候を楽しむような心持ちでじっと見つめているわけです。やがてその大きな津波が日本家屋を飲みこむや、夢から覚めます。この夢は私が幼稚園児のころから見ている夢で、実家のあった京都の町中でしか過ごしてはいなかったので、こんなにもリアルな海辺の情景など接したことはありませんでしたし、この日本家屋もまたかなり大きなもので、しかも江戸時代を彷彿させる建築物だと思われ、京都の町中に住む3歳児が日常生活で実体験したわけではなく、テレビなのか絵本なのかから得た情報で作り上げたものだと考えています。
情報に溢れているとされるいまの時代は、すぐに結論を求め、場合により陰謀論的な安易な切り口を享受する人が多くなってきたようですが、そうした安易な結論を求めるよりも、まずは実体験したものを静かに捉えなおし、淡々とその事実を見つめ、自分なりの言葉で考えなおした方が良いかと思っているのもあり、夢という現実をこれから備忘録的にnoteに遺したいと考えています。
さて、どうなるやら。
備忘録的に遺したいという欲求があると、夢を見るための夢を作り出したりするのがしれませんが、それはそれ、人間とはなんと浅はかな動物だろうかと、一笑にふすのもありでしょう。では、他のシリーズ合わせて、おつきあいくださいませ。中嶋雷太
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?