本に愛される人になりたい(30) 「わたしたちの道徳・小学校1・2年生」
「道徳」の話を持ち出すと目くじらをたてる方がたまにいらっしゃる。是非の話をしたいわけじゃないのに、あれは困ったものです。
ある物語を書くための資料として、最近の小学校ではどのような「道徳」を教えているのだろうかと本書を買いました。文科省検定に準拠した教科書ですから、ここに書かれていることは、日本国政府として義務教育で学ぶべき最初の倫理性なのだと思いますし、当然政府に棲みつく政治家や官僚は大前提としてこの「道徳」で求める倫理を遵守していることと思います。というか、遵守しなければなりませんね。
私の場合、「道徳」の時間が大嫌いでした。理由は簡単で、現実にはあり得ないからと見切っていたところがあります。また、「道徳」で示している優しさが、どことなく気持ち悪く本当の優しさとは思えなかったのもあります。昨今、「君は優しい」と愛着願望をくすぐる映画が多々ありますが、その優しさとは疾病のひとつ愛着障害を助長しているようにも思われ(おそらく愛着障害という疾病を知らずに製作しているとも思われ)、その安易な優しさに似たものを、「道徳」に感じていました。我が人生はどうやら「道徳」とは異なる地平にあるのだと思います。とはいえ、自分の価値観を横に置き、改めて読んでみれば何か発見があるだろうと、本書を手にしました。
「みんなの町だから、みんなでつかうところやものが、たくさんあります。やくそくやきまりをまもって、いつでも気もちよく安心してすごしたいですね。」とは至極当然のことなのですが、日々のテレビ報道などでの大人の所業を知るにつけ、暗澹たる気持ちにならざるを得ません。
「してはならないことがあるよ」の冒頭には「うそをついてはいけません」とあり、益々、ギャグのようにしか捉えられなくなってきます。
「家族のやくに立つことを」では、家族とはお父さんとお母さんが存在することが大前提として描かれており、母子・父子家庭や両親のいない子供には、かなり酷だなと思いました。明治維新政府が慌てて作り上げた家族像を未だに引きずっているようですが、なんとなく「そーゆーもんだよな」としてその家族像を許容し、辛い思いをしているであろう子供のことなど見ないようにしているのが、いまの日本ではないかと怖くもなり、まさか某霊感商法の影響を受けてはいないかと心配さえしてしまいます。
「道徳」があるから世の中まだましなのか、「道徳」という教科をこなせばそれだけで倫理観が養われるのか、「道徳」という教科の時間だけお利口さんになっていればあとは何をしても良いと思わせたいのか、それとも「道徳」を掲げることで明治維新政府が慌てて作り上げた家族観をまだ崇め奉らせたいのか…。
他山の石として、この教科書から学ぶことが多々ありました。中嶋雷太
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