暴言戯言、直言に怒言(10)「普段使いの言語感覚運動(?)
何十年も色々なジャンルの古今東西の小説や随筆などの文章を読んできて、感銘を受けた作品は山のようにあります、映画も同じく、私の自我を目覚めさせたり、新たな気づきを芽生えさせてくれた作品が無数にあります、
ただ、いつのころからか、日本語の言葉使いに違和感を感じはじめてきました。
「何?それ?そんなことあるんだ?でもさ、それも良い勉強だよ」と日本語で書くと、それが男性なのか女性なのかが分かりにくいわけです。前後の文脈で、それが誰の発言かが読者に分かるようにいざなうのは当然ですが、多くの場合、今どき誰も使っていないような女性言葉が使われています。
「何ぃ?それって?そんなことあるのぉ?でも、それも良い勉強じゃないかしら」みたいに。
ある、海外でも有名な日本の小説家の小説を読んでいたとき、今どきの女性が使うわけのない女性言葉が最初から最後まで使われていて、なんだかむずむずした経験もありました。先に書きましたが、文脈で誰の発言なのかを読者に無意識に理解させるテクニックはあるにも関わらずです。
突然、明治時代の話になりますが、言文一致運動というのがありました。つまり、文語体から口語体へと書き言葉を変えようとするもので、二葉亭四迷四迷、山田美妙や尾崎紅葉が、暗中模索し、紆余曲折ありながらも現在に至ります。
この150年ほど、小説家にしろ映画脚本家にしろ、現実に使っている言葉を作品に反映させようと模索してきたのだと思いますが、ジェンダーを超えた言葉が話されていることには、あまり感知しなかったようです。話はいつものようにズレますが、ジェンダーの多様性を否定する女性議員が、勇ましい男性言葉に近い言葉を使っているのを見るにつけ、私は苦笑しています。政治家言葉というジャンルもあるかと思いますが。
物語を書いていると、女性の知人との会話がとても勉強になります。その言葉に耳をすませていると、小説だけでなく、映画や演劇などで話される女性言葉は、かなり時代とズレているようです。
古典的な女性話言葉を使えば、楽なのかもしれません。先に綴った文脈でその人物を描くという面倒な作業を省けるからです。
私がこれまで世に出した物語に登場する女性や男性、LGBTQの登場人物には、普段使いの言語感覚で話をしてもらっています。このジェンダーを超えた普段使いの言語感覚運動(?)が、どこまで広がるのか、先ずは一人で頑張ってみます。中嶋雷太