本に愛される人になりたい(95) 辰巳芳子「味覚日乗」と「味覚旬月」
私の書棚の一画には食のエッセイのコーナーがあり、数百冊の関連本が並んでいます。食べることも調理することも大好きなのもあるでしょうが、本屋さんを訪れると必ず食にまつわる本を探してしまい、本屋さんにやってきた目的をすっかり忘れていることもしばしばあります。ある一人の大人がどんな食に出会いどのように感激したのか。人それぞれの食との関わり方にとっても興味があるようです。だからといって真似をしたいわけではなく、ただただその様子を<読者>として追体験してみたいようです。
料理研究家の辰巳芳子さんの食のエッセイもまた、そうしたわがまま読者である私を楽しませてくれます。上から目線で押しつけるというよりも、まるで隣に寄り添っているような感じと言えば良いでしょうか。凝りすぎもせず自慢げでもなく、人肌を感じる食の話を祖母に聴かせてもらっているような気さえします。
幼いころ、我が家の台所(京都では「だいどこ」と呼んでいました)を仕切っていた祖母の側によくいたのを覚えています。食いしん坊だったのもあるでしょうが、祖母が調理するその手作業に魅せられていたようです。まるでマジックのように思っていたのかもしれません。
四季二十四節という季節の変化に合った食が調理され食卓に出て、それを食べ幸せになる。家庭料理なので凝りすぎた食ではありませんでしたが、絶妙で多様性のある味覚を養ってくれたものと感謝しています。
ある日、辰巳芳子さんは、料理人のジョエル・ロブションと「東京でゆっくりお目に掛かる機会を得ました。」
「日本における彼の出版物の類には、ロブションの芸術とありますが、彼の口からアートという言葉は出てきません。九十九歳で亡くなったおばあさんが、亡くなるまでニコニコして家族のためにお料理を作ったこと、十五歳まで神学生であった彼は神学校の台所で食事係だった修道女の手伝いをした日をなつかしく語り、『材料をいかさねば。なぜなら大なり小なりものの生命を奪って私達はその生命で養われるのだから』と言います。実際、トマトの皮、その種まで乾かしたりして、それをあっと思わせる使い方をしますが、芸術とは言いません。ものの世界を大切に、人を喜ばせることに心を砕き、いつの間にか思わぬ道のりを歩いたのだと思います。料理人になった時、思い出したのはいつも台所でニコニコしていたおばあさんの顔というのです」
辰巳芳子さんの隣に座り彼女の食の話を聴いていると、調理をしたり食べたりすることの背景にあるとても大切なことを教えてもらいます。
有名だとか高いから美味しいわけでは決してなく、その背景にある大切なことを知っていれば、どんな食べ物でも美味しいはずですね。コンビニで買うおにぎりから、前菜からのフルコースのレストランで供される料理まで、その大切なことを知っているかどうか…。
テレビの夕方のニュース番組などを見ていると、見栄えや凝りすぎた食べ物をよくフィーチャーしていて、もちろんワーワー喜ぶお客さんの取材映像なんかもあったりして、またSNSで「映え」を競ったり…それはそれで「楽しみ騒ぐため」の食というジャンルなどでしょうが、辰巳芳子さんが教えてくれる大切なものなど皆無の食であることは間違いありません。地方のホテルなんかに泊まると地元ビールをよくプッシュされるのですが、これまでのところ「美味いなぁ」と思ったことがなく、凝りすぎて手を加えすぎた不可思議なビール風飲料と化していたり、地元の名物の食材の良さを殺しに殺した調理後の食べ物のようなものが出てきたり。
国内外で色々な食にこれまで出会い、感嘆符を上げた食はかなりの数になりました。(海外での仕事が多かったので、ミリオン・マイラーなんです)冬のパリ、サンジェルマンデプレの生牡蠣と白ワイン、モナコの地元の人たちが通う安づくりのレストランで真っ黒に使い古したフライパンごと出されたラビオリ、バルセロナの地元のバーでのツマミの一つ、プルポ(オリーブオイルで油煮したタコ)、長崎の居酒屋で出会った野母(のもん)アジのお刺身、ベトナムの路上に座って食べたホー、祖母の何百種類もの手料理…。
人それぞれ、好き嫌いもあって良いし、お茶漬け一杯だけでも良いし…。ただ、食べ物を調理したり食べるときの喜びとは何かに少しでも興味を持つと、その世界観はグッと広がり深まるものだと思っています。辰巳芳子さんの食のエッセイは、そんな世界観、とても大切なことを、そっと教えてくれます。中嶋雷太
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