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本に愛される人になりたい(59) ヴァルター・ベンヤミン著「複製技術時代の芸術作品」と解説本

 故・坂本龍一さんが遺した書き物にヴァルター・ベンヤミンの「複製技術による芸術」について語られていたのを文春オンラインで昨今知り、改めて「複製技術時代の芸術作品」と解説本を手にとりました。1936年に発行された「複製技術による芸術」なので映画フィルムで複製されることなどが彼の複製芸術のテーマでした。学生時代から何度も読んではふむふむと自分の考え方を整理してきた論考の一つです。
 オリジナルだけが芸術の時代から、1930年代になり映画フィルムなどが登場し複製されたものも芸術と考えざるをえなくなったようですが、その後の録画機器の進展やオンデマンドが常識となり、SNSでは他人の著作物などお構いなしで「宣伝になるから良いでしょ」パワーが著作権(者)の気持ちを押し返す時代となり、いまやChatGPTの時代となりました。私は個人的には、他人の著作物を安易にもて遊ぶのが好きではありません。(古いタイプの男です)

 さて、ChatGPTですが、GPTとは「Generative Pre-trained Transformer」の略です。
 ま、様々な情報を事前にまとめてくれて、求めに応じて変換し回答してくれることみたいなものですね。個人的には、他人の情報のパクリのようなことのように思われます。(古いタイプの男です)
 ただ、このChatGPTがなくとも、自分で色々な資料にあたり頑張って考えることなどしない人たちは、すでに頭の中にChatGPT的な思考があるわけですから、こうした機能が出現する以前から他人の話や意見をそのまま自分のものだとパクって受け入れ、それが自分の考えであると思い込み、それが自分の人生なのだと信じて生きておられるのだと思います。素直な人物でもありますね。
 それはそれで、その人の人生なので、私は一切興味がありません。ま、一回きりの人生をそうやって生きるのも気楽で良いのかもしれませんから。
 ベンヤミンの言葉を借りて現代社会に当てはめると「複製思考の時代」に突入するような気がしています。それは、ある種、熱狂的な宗教の信者のようにも見えます。神様は「◯◯と言われた」をそのまま信じて、複製思考でそれは私の考えだとし、同じ言葉を他者に伝えます。そして、その他者の中にもその言葉を信じきり「◯◯と言われた」と熱狂的に叫ぶのかと思います。複製思考の連鎖・拡大です。
 ナチスドイツに歓喜した大衆の反逆(ホセ・オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」)や自由からの逃走(エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」)や孤独な群衆(デイヴィッド・リースマン「孤独な群衆」)という言葉にピタリと合致した時代の様相が見えてきそうです。
 個人的には、そうした方々の話を聞くと、暇だなぁとか一回きりの人生なのにもったいないなぁとつくづく思っているのですが、大勢はひたひたと大衆が反逆しており、彼ら/彼女らは実は与えられた自由から逃走しているわけで、なぜなら自分の頭で考えて自分なりの価値観で生きることが孤独で怖くなっている…的な妄想に取り憑かれてしまいます。
 これからの時代は、おそらくお金儲けをするために複製思考を追求しそれを良しとする人々か、自分なりに物事を実直にゆっくりと考え自分なりの言葉を使う人々の二つにはっきりと分かれると思っています。ま、昔から、同じようなことを繰り返しては失敗するのが、私たちの文明史なのかもしれません。
 複製芸術から複製思考の時代に突入したのかもしれませんが…「科学は、何度繰り返しても同じ結果が得られる、つまり再現性というところに価値を置くものですけれども、音楽はそれとは反対です。一回しか起こらないというところにベンヤミンが言う「アウラ(オーラ)」があり、そこに価値があるわけです。だから、毎回同じことが必ず起こるとか、劣化しないとか、たくさん同じものがあるというのは、アウラがないということになるわけですね。」(文春オンラインより)
 これは故・坂本龍一が残された言葉です。
 さて、ChatGPTが手のひらにある私たちは、私たちの「アウラ(オーラ)」を磨けるかどうか…。「考えることは、ただ(無料)」だという一点だけは、付け加えさせて頂きますね。中嶋雷太
 追伸:しかし…坂本龍一さんが亡くなられた時に、SNSネタとして騒いだ方々はどこへ行ったのでしょうね。人の死をネタにして消費して「はい終わり」な時代なのでしょうね。(古いタイプの男です)

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