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プロダクション・ノオト(6)
先夜、ある映像作品のディレクターと語らった。その映像作品で、私は「ストーリー・コンストラクター」というクレジットで参加している。脚本や台本を書くのではなく、その場の物語、つまり「場のストーリー」を描く役割を担っている。まるで建築現場だ。古くは禅寺の石庭を作ったように、時空を織る作業と言えば良いだろうか。映画や演劇のセットは、脚本や台本に基づくが、ストーリー・コンストラクターは庭師的な作業だ。縁側で正座し、呼吸を緩やかにし、その世界に入ると、場のストーリーがじんわりと伝わるような作業でもある。重要なのは、その場にいる人だ。つまり、自分自身の人生というストーリーを閉じずに開け、その場のストーリーに身を置く。すると、自分のストーリーと場のストーリーがセッションを始め、その人でしか楽しめないストーリーが完成する。映画でも脚本という時間軸優先のストーリーではなく、時空ないまぜになった場のストーリーを描ければと願っている。脚本の行間に滲む、言語化できぬ意味の海が立ち現れるような映画が好きだし、そうした映画を製作したいと願ってもいる。小編映画『Kay』/『終点は海』の両監督、鯨岡弘識は、その感覚を持っている稀有な存在だと思う。中嶋雷太