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本に愛される人になりたい(56)アンドレ・ブルトン著「シュルレアリスム宣言」

 最初にお断りしておきますが、私は美術史家や芸術論研究者などではないので、あくまで私にとってのシュルレアリスム感をここに綴ります。目くじら立てて「それは違う!」とか「認識が間違っている!」と叫ばれても困りますので、よろしくお願いします。そうしたファナティックなのもまたシュルレアリスムっぽいので、面白がりますが…。
 来年10月15日は、この「シュルレアリスム宣言」が発行されて満100年を迎えます。この100年の月日で、絵画や彫刻だけでなく、映画、演劇から、現代のアニメやゲームなどまで、幅広いジャンルで、この考え方が受け継がれてきたようです。
 高校生のころ、初めて本書を手にとったのですが、何のことやらさっぱり分かりませんでした。ただ、色々な本を読んでいるとシュルレアリスムについての話があちらこちらに散見され、気づけば何となくのイメージが、私の心の中に定着していました。
 その漠然としたシュルレアリスムという考え方のイメージを、自分なりに自分の言葉で説明できるほど、当時は執着心がありませんでしたから、そのまま放置していました。けれど、ある日のこと、「あ!」と小さな声をあげました。それはとっても唐突に訪れました。パリのピカソ美術館を訪れ、時間をかけてじっくりピカソの作品を鑑賞していたときです。マッチ箱に手書きで何やらサクリと作ったオブジェのようなものを「ふーん」と見ていたときです。私にとってのシュルレアリスムが、スコンと落ちてきました。
 シュルレアリスムを日本語では「超現実主義」とし、何やら現実を否定して幻想豊かになるべきだ的な押し出し感に違和感を感じていた私にとり、そのスコンと落ちてきたものは、「そもそも現実というのは、そんなに秩序だってはいない」という感覚でした。つまり、現実とする私の感覚をよくよく捉えると、かなり曖昧で、かなりはちゃめちゃなものだということに納得したのだと思います。
 例えば、日々の生活の中で考えていることですが、かなりバラバラで、精緻な思考などしているわけがありません。とても分節的で、時には言葉にならない叫びのようなものも含んでいます。美しく秩序だった言葉で精緻に心理を描写されたような人間などいるわけがありません。
 ピカソ美術館の閉館時間ギリギリまで館内にいて、やがて心が疲れ果て、近くのカフェでエスプレッソを楽しみながら、シュルレアリスムとは、日本語翻訳では超現実主義とされていますが、超現実主義というよりも徹底的現実主義という方が良いのではと、タバコをふかしながら、ツラツラ考えていました。そのあと、パリで呑み明かしましたが…。
 ドン・キホーテが風車を巨人だと見立てて突進するのを馬鹿げた話だとするのが一般的なのでしょうが、それはドン・キホーテにとっては現実で、私たちが子供の頃に夢想していた数々の現実とさして変わりがないのかもしれません。因みに、ミゲル・デ・セルバンデスの「ドン・キホーテ」発行年は1605年ですから、徳川家康存命中のことで、もしかするとヤン・ヨーステンの手で、「ドン・キホーテ」が徳川家康に手渡されたかもしれませんね。これについては、いつの日か、物語化しようと考えています。
 田宮虎彦著「足摺岬」を読んでいると、ある復員兵が叫ぶシーンが描かれています。戦時中は戦争万歳だった村人は、戦後復員兵が帰還すると、まるで人殺しというように復員兵を冷たくあしらいます。その慟哭は、美しい精緻な心理描写で無数の言葉を重ねたところで嘘偽りの表現でしかなく、「叫び」そのものが復員兵の言葉、置かれた現実を表現する言葉、いや表現の発露となり読者に迫ってきます。
 そして、いまも続く日々、私たちはある種の幻想にも似た現実を、全感覚でもって生きています。徹底的な現実主義は、これからも私の作風にも活かせればと願っているところです。中嶋雷太

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