ゴッホの手紙と読書の意味
8月22日『ゴッホの手紙』岩波文庫、読了。
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定期的に鬱期がくる。
前日まで普通に生活していたのに、朝起きて子どもたちを保育園に送り届けて帰ってきたら、すでに鬱に包囲されている。
始めは見て見ぬふり、気にしないふり、ダメージなど微塵も受けていないふりをする。が、ものの数時間で屈してしまう。
途端に無気力状態。本を手に取るが、この期間には、自分で自分に禁じている言葉をつい思ってしまう。
「読書をして、一体何になるのか」
そして自己嫌悪に陥り、また何もする気になれない、の無限ネガティブミラクル鬱ループだ。
読書の意味や読書のメリットは、齋藤孝先生にみっちりと、これでもか、という位に教えていただいている。頭ではわかっているのだ。
だが、先生も若いころの著作では特に、「学生のうちにめたくそ読書して、豊かに賢く、人格を整えて社会に出ていきなさい。そうすれば、必ず活躍できるから。これは義務だよ」という主旨のことをおっしゃる。
それを読んでいると思う、私は、今後社会活動を送れるかどうかもわからない。このまま家に閉じこもった状態で、一生を終えるかもしれない。
そんな私が名著をどれほど読んだところで、たくさんの名言を食らったところで、死んだら何も残らない。つまり、読書をしないで死んだとて、何も変わらないではないか。
そう、絶望的に思ってしまうのだ。
ゴッホは、死後に評価された。
生前は極貧で、お金の悩み、お金が尽きることへの心配が必ず手紙の書き出しであった。
描けども描けども、全く評価されない自分の絵。手元からどんどんと消えていくお金。突然の病。孤独。
私はゴッホを想った。
どれほど心折れそうな瞬間があったろう。いや、実際には何度も何度も折れていたのかもしれない。
それでも手紙には「私にできることは描くこと、それだけだ。自然と対峙し、格闘することだけだ。」(意訳)と書く。そして画商としてパリで働く弟テオを励ます。
「お互いがんばろう。今に売れるさ。俺は信じている」
と。
単身南フランスに移住した晩年は、明るい太陽の元、美しい色彩の自然に魅了され、最も精力的に描いた。「美しさ」が神だ、というようなことも言っていた。ゴッホは手紙の中で宗教的側面をほとんど見せない、どこか日本的な感覚を持っていたように思う。自然の中に神がいる。いや、自然そのものが神であり、すべてであり、この美しい自然をどのようにキャンバスに描くことができるだろう、と常に自分に問いかける。
そうして病に倒れ、ますますお金に困り、病院に入院し自由も奪われ、それでもその不自由な中でひたすらに描く。
最後まで今日のような評価を得られないまま、7月29日、自殺。享年37歳。
最後の手紙の最後の一文は、
社会で実際に活動したいのだ、だがいったいどうすればいい。
であった。
私に足りないのは、忍耐力かもしれない。
今、ゴッホの手紙を回想して思う。
ゴッホには人並み外れた忍耐力があった。そして人類を含むあらゆるものへの愛が。
ゴッホはとても純粋であるが故に、自然の神に愛され、呼びかけられ、ゴッホ自身も自然の魅力に魅了され、最後は自然に溶け込んでしまった。一体となってしまった。
忍耐力をつけよう。ゴッホのようにあらん限りの情熱すべてを賭けることは今はできなくても、忍耐して下手にじたばたせず、流れを読もう。
そうか、こうやって
本は私を救ってくれてきたんだ。
今まで読んだすべての本が、私の中に、
きらきらと光る砂金として積もってくれている。
これからも、砂金を集めていくんだ。
私の屍を開いたら金塊が出てきた!
と、言われる未来を目指して。