本の中にあると思うのだ。水が。答えが。
7月29日、村上春樹著『ねじまき鳥クロニクル』新潮文庫、読了。
終わり方、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドに似た「静」「美」。目を閉じる。
上手く書けるかわからないけれど、感想を書こうと思います。
折しも読了日である昨日、ヨルシカの最新アルバム『盗作』が発売された。全曲を通して「嫉妬」そして「満たされぬ想い」「渇き」が描かれている。
一方、まさに「枯れ井戸」を描くねじまき鳥クロニクル。
このリンクにぞくぞくしながら、夜な夜な考えていた。
夜興奮するなと主治医に言われてるのに、ごめん先生。
この小説の重要なテーマのひとつは「陰」と「陽」だと思う。
普段私たちは「陽」の部分を前面に出しながら社会生活を送っている。社会生活は皆で協力して(あるいは協調して)いかなければならないので、「陽」が前面にでるのは間違っていない。社会が動くときは、そうあるべきだと思う。
しかし私たちに「陽」があるならば、そこには必ず「陰」がある。そして「陽」よりも「陰」のエネルギーの方が大きくて強い。常に発散されたがっている。自分の内側で暴れ狂うときもある。だが表には出せない。
それは、人と接している間、私たちが必死で押し込めているものだ。
押し込められると圧縮されて、圧縮され続けたエネルギーは、何かのキッカケで爆発してしまう。
それは理不尽な暴力となる。
ゲド戦記の1巻を思い出した。主人公が自分の影から逃げ回るが、影は消えないしどこまでもどこまでも追いかけてくる。あの話。
結局最終的に主人公は影を自分の中に取り込み、影を受け入れ、真の勇者になっていくというお話。
ねじまき鳥クロニクルも最後、主人公が暗闇で「陰」と戦い、そして勝つ。主人公が持っていたペンライトで死体を照らそうとするが、女に静止され結局正体はわからない。それは綿谷ノボルだったのかもしれないし、あるいは岡田トオルだったのかもしれない。綿谷ノボルは岡田トオルだったのかもしれない。(でも殺してしまったということは受け入れることにはならないので、さらなる考察の時間は必要……いずれまた)
間宮中尉が皮剥ぎボリスを殺せなかったことは、この世から「暴力」がなくならないことの象徴だと思うし、
岡田クミコの不倫の理不尽さ(性の問題)にも、彼女を責め立てることができない何かがある。
きっと、理不尽や性の問題や暴力がこの世からなくなることはない。なぜなら、ひとりひとりの中にそれはあるから。自分の中にある暴力性に気づかないふり、見ないふりをすれば、自分は枯れた井戸でしかなくなる。欠乏感、満たされない思い、名前も顔もない人間のまま生きるしかない。
それでは苦しいと言ってもがく人間の姿を描いたのが『盗作』というアルバムだと思う。
正確には枯れ井戸の中からはこんこんと湧き出るものがある。
それは水ではなく、目に見えないが目をそむけたくなるほど醜い「嫉妬」という感情。枯れた井戸にだけ湧き出るもの。枯れた井戸だからこそ、湧き出てきてしまうもの。
「器量、才覚、価値観 骨の髄まで全部妬ましい 心全部満たしたい 嫉む脳裏は舌打ちばかり」『昼鳶』
井戸に水が戻ってくるようにするには何をすべきか?
醜い「嫉妬」という感情ではなく、
透き通って冷たくて美しくて、からからに乾いた私を潤し、癒してくれる水。
そんな水が湧き出てくるような井戸になるには?
そのような存在である「水」とは?
私はこれからも、この暴力に満ちた世界で嫉妬に満たされた井戸を抱えて、渇きをいやしたくてしかたないともがき続けなければならないのかな。
いつか井戸が水で満ちる日まで、まだまだ本を読まなければならないな。
それだけは、わかった。
本の中に私は水を見つけたい。
本の中にあると思うのだ。水が。答えが。
私には本があってよかった。
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