現代と何一つ変わらない古代ローマの人間劇場
9月1日、I・モンタネッリ著『ローマの歴史』中公文庫、読了。
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セネカの『人生の短さについて』は以前から読みたいと思っていて、Amazonの「後で読む」リストに入っていたが、『ローマの歴史』を読了したタイミングで満を持して注文し、それが今日、届いた。
一緒に頼んだ品物の入荷がやや遅れたこともあり、普段に比べて少々到着が遅かったが、そうは言ってもその間たったの4日である。
セネカは、『ローマの歴史』にも当然登場したので、どの辺りだったかな、とページをめくっていた。多分この辺り、と思うところを何度も行き来して驚愕した。
見つからないのである。
自分の脳みそは一体どうなっているのか。
たったの4日間しか経っていないのに!
でも私はこの『ローマの歴史』に関してはその情けない事態も自分に許すことにした。ローマ帝国設立から滅亡までの長大広大、悠久の歴史は一度読んだだけでは覚えられるはずもない。ラテン語のカタカナ表記が地名なのか人名なのか、ごっちゃごちゃになる。さらに地名にしても人名にしても、出てくる数が多すぎる!!
という単なる自分の記憶力の悪さを棚にあげて愚痴っているが(ほとんど何も覚えていなのだから重症)、読んでわかったことももちろんあるので、第1回目の本書読了の記録はこの程度で勘弁していただきたい……
初期の民が少人数だった頃のローマは民主主義の政治がとてもうまく回っていた。人民によって選ばれた議員たちの清廉潔白な政治。政治人としてのプライドと自負を抱き誇り高かった。また、議員たちを監視し権力を乱用しないように見張る確かな人民の目があった。
しかし徐々に領土を拡大し人口も増え、他民族国家になったローマ帝国では、地方と都市の貧富の格差、ローマ市内においても豊かになった一部のブルジョアジーたちによる「資金」という武器の台頭。賄賂や汚職が横行し、一度手に入れた権力の座を奪われまいと犯罪多発。もともとは質実剛健、真面目で家父長制を重んじる超保守的精神を持っていたローマ人たちも、他の民族が市内に流入し、彼らが快楽をもとめ乱痴気騒ぎを好むにつれ(ちょっと言い過ぎかな……)風紀も乱れ始める。
領土を拡大し他民族を併合していくということは、それだけ異なる文化が次々と流入してくるが、ローマは当初から寛容で宗教でさえもすべて受け入れており、後期は数えきれないほどの神であふれかえっていたそうだ。
共和制から王政に変わり、賢君も暴君も経験してきたローマ。
多くの多種多様な精神を受け入れてきたローマ。
古代ローマと一言書かれると構えてしまうかもしれないが、なんてことはない、今現在我々が経験している世界が2000年ほど前にもあったよ、というだけの話だ。
現在日本が置かれている立場とそう変わらないのかもしれない。グローバル化した現代は、まさに古代におけるローマ帝国が抱えた困難をそのまま表しているように思う。
この本の中には何千年経っても何一つ変わらない人間というものが、ありありと生々しく、滑稽でくだらなく、残念で憎たらしく、時に愛らしく描かれている。
人は易きに流れるだとか権力に弱いだとか、
誰だってお金が欲しいだとか美女には目がないだとか。
淫乱な人妻だとか胃が弱い王子だとか精神病の皇帝だとか。
若いころと年を取ってからでは性格が変わってしまうとか。
全然変わらない。
変わらないんだ人間は。
古典を読むといつも思う。そして安心する。とともに愕然ともする。
私たちはこの大きな繰り返しの流れの中にどうして入り込んでいるのだろう?
何のために繰り返しているのだろう?この壮大なタイムリープを?
大縄跳びのように。
大縄跳びと違うのは、その流れの中に入るか否かを自分では決められないまま、気が付くと入ってしまっていることだ。
そこにどんな意味があるんだろう?
繁栄しては滅びていく繰り返し。
こういう壮大な歴史を読むと、もう、自分の意思で何かを決定しているという感覚は全くの間違いで、そうなるように元々できているんだと、
だから変に肩ひじ張るだけ無駄だよと、
流れに身を任せるだけで生きていこうよと。
半ばあきらめの気持ち、半ば受け入れる心持ちで、思う。