絶望に対する復讐論
絶望することを選ばない者は、往々にして現実逃避をし、さらには運のせいにするものだ。運の結果を緩和するのが社会の役割であるが、それでもどうにもならない部分は遺伝子の問題だろう。誰もがプロ野球選手や医者になれるわけではなく、生まれもった塩基配列によってある程度は決まってしまう。それを思い知ったとき、人は絶望する。
ところが、絶望に至らないままでは、人は新しい希望を持ち始める。この希望は言わばカンフル剤であり、一時的な興奮状態をもたらすものに過ぎない。
たとえば、『ブルーロック』の馬狼 照英は、現実の世界で徹底的に絶望し、そこからただ一人で蘇った強者だ。自害寸前まで追い込まれるという危険な絶望を経験しながらも、天才ゆえに見事な復活を遂げた。
一方、SNSの裏アカウントなどで絶望を吐露する人もいれば、芸術を通して絶望を深める人もいる。だが、馬狼 照英のように、現実世界であそこまで「究極の絶望」を貫く人はまずいないだろう。あくまでフィクションだからこそ成立する話であり、馬狼 照英は“絶望の才能”が天才的に高かったと言える。
我々は常に運という理不尽によって絶望を強いられる。そして、そこから立ち直るために、まずは虚構の世界の自分を殺し、再構築していくのだ。かつて、日本人は復興という形で絶望を乗り越えてきた。それは皆が支え合った歴史があるからだろう。逆に、助け合う相手が見つからず、完全に孤独な者には、幻想の世界で絶望を経験し、そこから再生を図ることをおすすめしたい。
絶望というのは、人生のうちに一度あるかないかの大きな転機かもしれない。そこからの選択肢は、大きく三つに分かれるだろう。
1. 絶望して自分を殺し、まっさらな状態でリスタートする。
2. 希望を見つけて現実逃避を図る。
3. 絶望そのものに復讐するため、残りの半生を生き抜く。
私は何度試みても、どうにも絶望しきれない。才能がないのだ。希望を見つける現実逃避という道もあるが、それを選んでしまうと、さらなる絶望に出会う可能性を否定できない。ゆえに、私は最後に「絶望への復讐」を選んだ。三島由紀夫が徴兵検査で貧弱とされ、不合格に終わったことをバネにボディビルを始めたのも、まさに絶望に対する復讐の形だろう。
現代、特に日本では、多くの若者が何度も絶望を味わっている。太宰治が多くの若者に支持されているのも、作品を通じて“空想の絶望”を体験したいという願望があるからだ。しかし実際には、彼のように文学の中で絶望しきることは簡単にはできない。結婚やライフワークに希望を持とうとしても、離婚や人間関係の破綻といった挫折が繰り返され、再び絶望に引きずり込まれる。個人主義が進んだ今の時代、仲間と協力して絶望から這い上がるという“勇敢な物語”はほとんど姿を消している。
だからこそ、私たちの世代は“絶望への復讐”という新たな道を模索する世代なのかもしれない。