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「摩擦の詩学:戦場と日常の交錯」

戦の沙場において、いかに壮麗に塗り上げられた作戦計画であろうと、現実の一筋の狂いが、その絢爛たる構図を一気に崩落させることがある。クラウゼビッツの指摘する「摩擦」という概念はまさにそれだ。雨ひとしずく、あるいは僅かな兵の意気の乱れ。そのような微小に見える事象が、やがて軍全体を飲み込み、勝利へ向かうはずの道を泥濘へと転ずる。これは何も戦場に限った話ではない。社会における組織運営、さらに恋愛の機微に至るまで、人間が紡ぐあらゆる営みに摩擦は潜んでいるのだ。

たとえば恋愛において、抜きん出た容姿や高い収入といった「兵力」と「装備」を誇る者が、一見すれば圧倒的優位を築くかに見える。ところが、ほんの些細な言葉の選び方、あるいは相手とのすれ違いのタイミングといった偶然の要素――これこそが恋愛の摩擦となり、勝敗を左右する。言い換えれば、不細工と蔑まれる者であろうと、この運の介在によって、恋愛市場においては予想外の逆転劇を演じる可能性を秘めているのだ。

何事も机上のプランをいかに錬り上げようとも、それは所詮、現実に一歩も踏み入れぬ空論の域を出ない。かようにアカデミズムの徒たちが、生身の社会に突入した瞬間にその精緻な理論を寸断されてしまう例を、我々は枚挙に暇がないほど目撃してきた。日銀の支店長会議のごとく現場を細やかにモニターしなければ、机上の政策など恐ろしくて執行できない、というのも同根の道理である。

そして「ブルーロック」におけるラック(運)という表現は、じつにこの摩擦と同質の原理を描いているに他ならぬ。かの戦争論で語られた摩擦は、運命という不可視の力の手触りを示すに十分な概念だろう。こうした摩擦に対して、われわれに許される対策はごく限られている。むしろ「存在する」こと自体を受け容れ、いかなる偶発にも対応できる柔軟性と嗅覚を研ぎ澄ます。それこそが、戦場であろうと恋愛の修羅場であろうと、もっとも重要な資質となるのだ。

何故ならば、摩擦は決して根絶することなどできないからである。摩擦を排除した先にあるのは、過度に整然とした世界が産む、虚構の安寧にすぎない。実際に生き抜くためには、摩擦の存在を織り込んだ上で、小さな乱調すら己が糧として取り込む才覚こそが必要だ。机上に描かれた絵空事ではなく、まさに運や偶然という生の瞬発力をも味方につけ、絶えず摩擦に応答する構えが、古今東西を通じた真の勝利の方程式であると、私は確信してやまない。

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