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物語であることは、幼稚か

 ひょんなことから昨夏より、ひと様のご先祖調査を承るようになった。簡単な経緯はこちらに記したので、お読みいただければ幸いです。

 ご依頼を受けて、戸籍謄本を読み取り、家系図を起こし、家譜(家の年表)を作る。歴史・地名辞典などの基本資料を手始めに、住まわれた土地の郷土資料にあたる。歴史や風土・産業などの土地柄の概略をつかんだ上で、ご先祖様に繋がる情報を探す。地域に貢献された事績など、ご先祖様個人のダイレクトな情報が見つかることも珍しくない。

 こういった作業に1週間も没頭していると、そのお家の来し方があたかも映画を見るように、目の前にありありと浮かんでくることがある。
——明治のこの時期の前後に、遠く離れた北海道に一家で移住されたんだ
——この頃、二十代半ばの若さで郷里から出てきて、この地で一から家業を立ち上げたられたんだ
——お子様が続けて夭折されている…さぞやご苦労を重ねられたことだろう

 別に何かが見えるとか、そんな特殊能力は私にはない。むしろ他の一切の調べ事と同様、いかに信用度の高い情報を積み上げることができるかを信条としている。時には推測を立てることは必要だけれど、推論をもって突っ走ることがないよう常に肝に銘じている。

 それでも、知らず知らずこういった映像が浮かんでくる。調査結果をお読みくださるご依頼者様もそれは同じかもしれない。いや、赤の他人の私にさえ胸に迫るものがあるのだから、お身内であればなおさらのことと思う。

 情報に基づいた、地に足の着いた調査が基本であることは言うまでもない。その一方で、年表みたく「〇〇年にこれこれの出来事があった」的な事実の羅列では一向に入ってこなかったものが、歴史小説だとストレートに響くことがあるのもたしかだ。

 元来、人の心というものは、物語を欲するように出来ているのではないか。
古くは、平家物語や説教節しかり、寺社の縁起や浄瑠璃しかり…。
 出来事の流れが物語性を帯びるということは、夥しいファクトの集積に劣るのだろうか。唯物論的歴史観からみたら稚拙なことだろうか。

 わが家に伝わる物語を確かめたい、埋もれている物語があるなら掘り起こして次の代にも伝えたい——先祖調査を始めるきっかけにはそのような根源的な衝動が働いているのかもしれない。

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