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自分の中で考えていることや感じていることが自分の中で大事だとおもっているのにそれを誰かの役に立たせないと意味がないっていうのはちょっとおかしいんじゃないのかなみたいな話(追記あり)

最初から「あんまりこの人の言ってること面白くないな」(それはその人が「そもそも面白くない」ということを意味せず、自分がその人の言ってることに「面白み」を見いだせていない、ということではあるんですが)とおもうひとであれば別に引っかかりもしないんだけど、自分の中で面白いとおもってるひとなのにもかかわらずそういうひとたちのうち何人かが共通して言ってるのに自分の中で納得いかなくてずーっと引っかかっていることのひとつに、
「頭で考えているだけではだめで、それを実行しなければ意味がない」
もしくは
「形にしてまわりのひとたちに貢献しなければ意味がない」
的な考え方があって。

確かに実行することは大事だし、貢献したり役に立ったりすることで価値が生まれるし、逆にまわりのひとからそうしてもらえるおかげで自分が生きられるし充実するし、ってのはわかるんですが、「そのため」に生きてるか、っていうのとは別なんじゃないかとおもうんですよね。

で、なんでそこの違いが生まれるかっていうと、たぶん自分は(少なくともまわりにいるひとたちよりは)「自分の認識がどこまで充実するか」みたいなところをいちばん大事にしているから、なんだとおもったんです。
そしてこのことが、じぶんが他人に興味あるようで完全には興味を持ちきれなかったり、ひとつの仕事に打ち込めているようでそうでもなかったり(おそらく前者のほうが一般的には好意的に受け入れられる)する理由なんだろうなと。

で、めちゃくちゃ唐突だけどこれを釈迦が語ったとされる「縁起」と、釈迦が悟ったとされる「空」に当てはめるとしたら、「実行すること、貢献すること」派が「縁起」で、「認識すること(自分)」が「空」につながるんだろうなとおもって、この両者はべつに対立するものじゃなくむしろ強く結びつくものなんだけど、いま(とくに震災後あたりから)は前者への傾きが強くなっているんだろうなあと感じています。

すごーく簡単に言ってしまうと「自分の中で考えていることや感じていることが自分の中で大事だとおもっているのにそれを誰かの役に立たせないと意味がないっていうのはちょっとおかしいんじゃないのかな」みたいなことです。

画像は「渋谷」で検索したら上のほうに出てきた画像です。


追記:

という記事を書いてたらいつの間にか記事が消えてて、メール確認したら画像についての指摘がnote側から来ててそれを無視していたから削除されていたみたい。
そのままにするか別の画像にしてもよかったけど、逆に「こんなところでも見てくれてる人がいるんだ」ということをおもったのとごめんなさいの気持ちも込めて再アップ。

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「ニッポンを撮る」
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