「主体」とか「私」とか、近代文学的な忘れ去られた主題なのか? 『##NAME##』 児玉雨子を読んで思い浮かんだメモ。
『##NAME##』 児玉雨子/河出書房新社
北海道新聞「2023年の三冊」書評で斎藤美奈子さんの紹介で即買い。丁度『n番部屋を燃やし尽くせ』も読んだ後で、性的搾取、虐待児童、少女への視点。しかし、こちらは「被害者」ではなく「主体」として描かれている。斎藤さんも言ってたが、小説としてはもう一歩でも、今書かれ、出版され読まれることに意味がある。
昨年の芥川賞で『ハンチバック』と競ったようですが、全く違うようで、同じ「主体」による「主体」としての表現だ。男性作家の選評は頓珍漢過ぎて呆れるけど。
『ハンチバック』の主人公もネットでエロ小説を書いていたが『##NAME##』の主人公も少年漫画の夢小説(BL小説?)二次創作をしている。それに対して子供への性的搾取を主人公自身が考えるーとても危うく脆い心と消費する社会との関わりを描く試みで。少女マンガならもっと出来るかもなあと思った。
主人公が度々に感じる感情の比喩は、少女マンガ表現で、わたしの頭には浮かび上がる。小説の中では「言葉にできないものを言葉にしようとする」試みだけど、文学少女趣味的な稚拙さ(すいません)…が出てしまう。自己感覚と世界との繋がりを表現するのは難しい。その点少女マンガ表現は圧倒的なノウハウがあるので。
『n番部屋』もそうだったが、筆者は、当事者を「被害者」として二次被害で傷つけないために最大の心を砕いているのではないか。小説の中にもその場面は出てくる。消費されるアイドルや性的搾取される女性を「商品化」「犯された者」「汚された者」として傷つけるのは、他でもないわたしたちなのだから。
たとえ被害にあっても「主体」は、傷つけられない。尊厳は守られている。そのための<物語>とは。