見出し画像

3.11

今日は次男を連れて、東和の実家へ行ってきました。

「もうすぐ14:46になるね」と、14時半頃に言うと、

「え、なんだっけ」と母。マジか。

「そっか、今日3.11か」
そっからか。

母「11年も前なんだね。昨日のことみたいに、しっかり思い出せるよ…大変だったなぁ」

私「あの日、大船渡から、住田あたりまで来れたくらいで、お母さんと電話繋がって、少し安心したんだよね」

母「へ?電話?したっけ?」

昨日のことみたいに覚えてるんじゃないんかー!

こんなんでも、お互い容赦なく元気に話して笑える、今日があること、命があることに、感謝。

---

ちなみに。

11年前、その、電話が繋がったときの母。
「玄関のドア開けたっけさー!靴箱斜めに倒れてんだものー!びっくりしたわー!まるで大地震みたいだー!」

「そだよー、大地震だよー」という私の返答を、
聞いていた当時の上司。

「どういう会話…?」(当然の反応)

天然とユーモアが複雑に織り交ぜられている母との会話は、私の方が脳トレになります。
育休で、人との会話がとても少ないので、大変ありがたいです。

---

以下は昨年、東日本大震災から10年ということで、Facebookにつらつらと書いた文章です。
その日は岩手県大船渡市にて、パソコンとシステムの納品作業をしていました。
間違いなく、人生で一番怖かったけれど、生きて帰ってこれたのは、本当に幸運でした。
少しの判断やタイミングの違いが、あまりにもくっきりと明暗を分けました。
そのことだけはいつだって、忘れてはいけないと思っています。

---

2011.3.11

ガラケーだったな
SNSやってなかったな
独身だったな
髪のばしてたな(謎)

大船渡にいたな
パソコン納品してたな
前の週の地震の話して笑ってたな

揺れて、長くて、大きくて、
納品したてのパソコンのキーボードにお茶がこぼれて、やべーと思った

もっともっともっともっと
やべーことになってたのに

めちゃくちゃになった事務所を
片付けようとすると余震が来て
まためちゃくちゃになってキリがない

とりあえず外に出てみるべって
出てみたら信号消えてて渋滞が出来始めてた

みんなもう解散!
家族優先!
後のことはまた後で!

と、お客様が言ってくれたから

盛岡に帰ろうというアタマになった

そのとき付き合い始めたばかりだった
今の夫からメールが来たので
「大丈夫」と返事をした

上司が運転してくれる車の助手席で
逆流してくる川を見た
途中流木に足がはさまって
飛び立てない白鳥も見た
ラジオからは頻りに
「落ち着いて行動してください」

言葉では何度も、
もちろん本気じゃなく
「死ぬかもー」「死にそー」
って言ったことがあるけど、

全身で、心の底から、
「あれ、もしかして、死ぬかも?」
って怯えた、けど、口にはしなかった

車の列がなかなか進まなくて
橋の上で待ってる間に水がどんどん増えて

車を諦めて走るべきか
それは今日のうちに盛岡に帰ることも
諦めることになるけど

グズグズ迷っているうちに

交差点に立って交通整理してくれる方が現れ
ゆっくりゆっくり内陸側へ進めた

あとから聞いたら

パソコン納品した事務所、
私たちが出発した10分後には波が来て
1階は完全に浸水したとのこと

ラッキー。感謝。感謝。

住田あたりで
たまたま実家と電話が繋がり
母の声を聞いた。

ちゃんと帰らなきゃ、絶対。

川がずっと茶色で水が多かった

停電で真っ暗なトンネルを
慎重に走る車の列

国道4号に出たときには18時過ぎて
職場にたどり着いたら誰もいなくて
自宅で
床に散乱したパスタを踏んづけながら
どうにか部屋のドアを探しあて
着替えもせずに布団に潜り込み
寒さと空腹でワナワナしながら
明るくなるのを待った

翌日
土曜当番だったので(真面目か)
徒歩で出勤してみる

「こんな日でもちゃんと化粧するんだなぁ」
と先輩に感心(?)されたけど
当時エブリデイスッピンの私は
その日風呂にも入ってなかったのですよ

震災前、最後の食事は
ホットポットのミートソースでした

ほんのちょっとのタイミングや
判断の違いで
この10年を得た人
唐突に失った人
に、分かれてしまって

空しくなるくらいどうしようもないことだけど

ごめんなさいとも何度も思ったけど

こんなもんで済んだ私は
感謝を忘れずに
命を大切に
生きていきます。

職場で黙祷しながら
涙が製造されるのを感じたので
頑張って堪えて平静を装おうとしたら
サラッサラの鼻水が床に落ち
花粉のせいにした10年目の春。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?