感応する世界のなかで
私が21歳のとき、いわゆるラグジュアリーの世界からキャリアをスタートできたことは、とても幸運なことだった。
北海道の田舎から出てきた大学3年生だった私は、東京も、ファッションも、社会のことも、右も左も分からないなかで突然、世界でもトップクラスの甘美な感性の世界に触れさせてもらうことができた。
ファッションは世界の時流(その瞬間に、その空間に漂うながれ)を表していて、一流の表現は、その人が、そのひとつのモノに表すまでに流れる、うつろいや漂いや、感情や融合や閃きやときめきや、そのすべてを含んでそこに存在しているのだった。
20代前半の頃、私はそんなことを師匠に教えてもらい、体感させてもらいながら過ごした。とても幸運なことだった。
今日、久しぶりにひとりで銀座の街を歩いていて、そんなことを思い出した。
銀座に来た目的は、銀座蔦屋にて展示中の『神迎え』を観に行くこと。
尊敬する編集者である麻由美さんが、日本の神話を日本の紙に綴りたいとの思いを結んだ、いのちの一冊。
実際に本を前にして彼女が書いた文章をなぞっていたら、そのものがたりが、今、この場所で紡がれていること、ものがたりの一滴が落ちた瞬間から流れてきた長い長い年月を感じて、銀座のど真ん中で思いがけず泣いてしまった。
先日、彼女のアトリエにお伺いしたら、明治期の文豪たちが書いた名著を当時のそのままの姿で復刻した本が何冊もあって、それらをひとつひとつ見せてもらった。
当時は画家と一緒に本をつくりあげるのが主流だったそうで、文豪たちは、いのちをつかって書いたその文章を載せるための紙を選び、そこに沿えるべき画を依頼し、ページのデザインやその余白部分さえ、すべてを感じながらつくっていた。
現代の文庫本の形でしか彼らの作品を知らなかった私は(しかも読んだこともほとんどない)、その感性の奥深さをはじめて知って、すっかり感動してしまった。
麻由美さんは「本当にセクシーだと思わない?」と言った。
私も、そう思う。どれも官能的で美しくて魅力的で、どうしたって、そのなかに漂う時間を持ちたいと思ってしまう。
一冊ずつ、読みたい情景が浮かんでくる。雪を眺めながら暖炉の前で、あたたかいコーヒーを飲みながら読みたい一冊もあれば、初夏の森に寝転んで、陽を感じながら読みたい一冊もある。
情緒的な一冊は、読む人の感性に呼応してゆく。
そんなことを考えていたらとっても繊細な気持ちになって、Airpodsでピアノの曲を再生し、冬の気配が漂う銀座の街をひとりで歩く。
美しさの根底には美学があって、美学の根底には生き様があって、私はその部分をみたいんだ。
だから、文章をかいているし、人の身体に触れさせていただく仕事をしている。
本当はね、ビジネスとかインバウンドとか稼ぐとか資本主義とか、どうでもいいのよ。ふふふ。
ふとした目線や、ゆらぎの手元や、言葉に宿るいくつもの感情や、奥のほうにかすかに聴こえる音や、ほんのり香る愛に比べれば。
本当にそんなこと、どうだっていいの。
目線のはこびひとつで、すべてが溶け合ってしまうような、感応する世界に生きていたい。
はぁ、なんて豊かな世界。ここに漂うことができて、とても幸せ。
私は、人のなかにある、深い深い感性に、感応して生きていたい。だから、いろんな人の物語を摂取しながら生きている。
理永