[第7回]「死にたい」は必ずしも「死にたい」ではない
しとしとと、静かに、だけど音を立てて降る9月も半ばの雨。そう、これを書いているのは9月である。だがしかし、きっと更新されるのはカレンダーをめくった後になっているだろう。何故ならわたしはタイミングを見計らいすぎた結果、更新する時を見失った記事が2つも溜まっているからである。時間帯的な問題だけではなく、いいヘッダーが見当たらなくてタイミングを失っているのも正直なところでもあるが…。わたしは気まぐれなのだ。数か月キーボードを叩かない時もあれば、数日間に幾つも綴る事もある。だけど、それでこそ人間性があるではないか。気分次第、なのだ。
AM0:38。何故か希死念慮がすごい。それは、雨のせいなのか、気圧のせいなのか。数日前から色々と物事が上手くいかないせいなのか。
わたしはしょっちゅう「死にたい」と願っている。何なら、基本的には毎日「死にたい」と願いながら生きている。高いビルに登れば足を滑らせないだろうかと願い、電車が来れば飛び込んだらどうなるだろうかと想像し、高い梁を見つければ首を吊れるだろうかとぼんやりと考え、包丁を見ると某アニメの、壁に包丁を固定し首に何度も自らで突き刺すシーンが頭をよぎる。因みに言うと、薬で死ぬことは考えた事がない。"強い"と称されるわたしの睡眠薬たちの致死量を調べた時に、絶望したからである。流石にそれは無謀だ。そう、冷静に考えた。
ところで本題だ。わたしは今「死にたい」と思いながら生きている。だけどそこに特段理由はない。自分の顔が嫌いすぎて死んでしまいたい時もあれば、自分の置かれた状況下が苦しくて死んでしまいたい時もある。未来を想像したときに、絶望という鈍器に後頭部をぶん殴られたせいで死んでしまいたい時もある。過去から逃れたいのに記憶は消えてくれないから、強制的に白紙にするために死んでしまいたい時もある。
だけど、今はなにもない。今日は自分の好きなタレントをテレビで見ることもできた。(内容と共演者はともかくとして…) もう1人の好きなタレントだって自分の好きなビジュアルでテレビに出演してくれた。別に家族と揉めたわけでもない。仕事で憂鬱な事があった訳でもないし、これから用事に向かわなければいけない訳でもない。大切なものが壊れた訳でもない。敢えていうなら普段よりも体調が悪いくらいであるが、そんなのは慣れっこだ。それなのに、何故。何故わたしは、いま、死にたいと願うのだろう。それが自分でもわからない。わからないから、解決法がない。
だけどきっと、特段の事由があって死にたいと願う時も、今みたいに何もないにも関わらずただぼうっと死にたいなと願う時も、きっと本質は「死にたい」訳ではないのだと思う。何故なら、死にたいというのは死を味わいたいという願望だからである。
確かに、そういった意味で「死にたい」とふと感じる事はある。首を吊った瞬間は激しいエクスタシーに襲われるとも聞く。飛び降りた瞬間、身体を地面に激しくぶつけるよりも先に気を失うとも聞く。溺死は嫌だ。溺れたとき、水を多く飲んだ時、死んでもいないのに激しい苦しみを味わった。特に海なんて最悪だ。塩分が鼻の粘膜を強く刺激してとんでもない激痛が襲う。でも、そうではない「味わった事のない」ものへの好奇心はある。
でも、わたしの「死にたい」という願望は基本的にその好奇心故ではない。何かから逃れたいのだ。例えばそれこそ、前記した特段の事由がある場合。見事に単純明快だ。その"理由"から逃れたいわたしは、生きている限り逃れられないと悟るから「死にたい」のだ。特段の事由がないとき、自分がなにを考えて、何をもって「死にたい」と感じているのかはわからない。例えば今だって、死にたいと願いながらも自分が死にたいと願う理由はわからない。さっき話した内容と同じことをわたしは今繰り返しているのだが、とどのつまり、死にたい理由はなくて、単に今から逃げたいのだ。嫌なことがあったわけではなくとも、生きていること自体が嫌なのだ。今ここで、ベッドの上で、息を吸って吐いて、パソコンに向かっている今が嫌なのだ。かといってテレビをつけたところでそれは解決しないし、なにも変わらない。きっと何をどう行動してもわたしの気持ちは変わらない。生きていたくない。こんな世界にいたくない。
要するに、わたしの「死にたい」は「死にたい」のではなくて、「生きていたくない」のだ。
この場にいたくない、わたしがわたしという存在で生き永らえていたくない、この世界に存在したくない、そういった"現在"のなにもかもを投げだしたくて、捨てたくて、どうしようもなくて、生きていたくないという感情を安易に表現できる言葉が「死にたい」なのだ。
例えば、死なずに幸せになれるならばわたしは死にたくなんてないし、現在から逃れられるなら死ななくてもいい。今すぐ記憶をリセットして、笑って楽しい時間に変えられるのならば、死ぬ必要性なんてどこにもない。わたしは、死にたくはない。ただ、生きていたくないというわたしの欲求を満たす為には現状では「死」という手段しか見当たらない、というだけだ。
わたしだって、幸せになれるならばなりたい。笑顔に溢れた生活を送りたいし、プラスの感情で満たされた毎日で在りたい。そうなれるならば、なりたい。それを捨ててでも、死にたいと思うことはない。
…いや、それは嘘かもしれない。そうなった時は「今のうちに死んでしまいたい」と思うときはある。だけどそれは、生活から逃れたい訳でもなく、死に対する興味でもなく、それを失うことへの恐怖からだ。二階から落ちるよりも、高層マンションから落ちる方が圧倒的にダメージは大きい。そういうことだ。幸せな毎日を送っていればいるほど、それを失った時の心的影響は大きくなる。突き落とされるくらいなら、絶望に満たされるくらいなら。幸せを両腕に抱いたまま散りたいのだ。大きな花束を抱えて、笑顔で、「幸せでした」と笑顔で去りたいのだ。この世を恨んで、憎んで、嫌悪感と絶望感に満たされて真っ暗な気持ちで、逃げ去りたくないのだ。人生の終わりくらい綺麗に終わりたい。愛する人に愛されて、想ってくれる友人に囲まれて、毎日が楽しいと感じているまま、未練を残すくらいのまま。
だけどそれは出来なかった。今を捨てる勇気がなくて、突き落とされて、傷ついて、脚を引きずりながらまたよじ登っては突き落とされて。それを繰り返す。自らの意志で絶ったのだと、胸を張れる事はなかった。弱い自分がいた。幸せを手放せない、それを1日でも長く味わっていたいという強欲さが、結局は後になって自分を苦しめる事になるのだ。それを幾度となく学んだはずなのに、わたしはまた、学ばない。同じ過ちを繰り返す。何度も、何度も。何故だろうか。いつになれば学ぶのだろうか。毎日そう思うのに、学んでいるはずなのに、行動に移せない。移せなくていいという人もいるが、あくまでそれは個人の主観で、その人の意見に過ぎない。わたしの意見は、また別だ。無論、その人の意見がそうであることは否定しない。
死にたい。死ねない。ちがう、生きていたくない。息をしたくない。意識を捨てたい。だけど、美しくありたい。様々な感情が混合し、結局何がなんだか分からなくなる。いまのわたしの頭の中は、混ぜ過ぎた料理のようだ。いつもそうだった。常になにかを考えていた。いつも違うことが頭をよぎっていた。そのせいで脳内がパンクするのだと言われたけれど、詰め込むことが当たり前と化し、それがわたしの生き方となっているわたしには、セーブをかける生き方が難しい。努力する術を知らないのかもしれない。考えてしまう人が考えずに済む方法なんて、そう簡単に落ちていない。それを探索するだけの術をしらないのかもしれない。まだ、歩き足りないのかもしれない。
わたしはそれを探しながら、生きたくないいまを生きる。目先の子供騙しだけを頼りに。年下の友人([第5回]生まれた日 参照)に言われたように、それでいいのかもしれない。そうしないといけないのかもしれない。今のわたしの子供騙しは、11月にある、好きなタレントの初外部舞台である。演技の仕事がしたい、と言い続けてきた"推し"にとってそれはとても目出度いことであり、ファン側からしても大きなイベントである。このご時世、簡単には会えないのだからなおのこと。それまでは生きないといけない。
わたしは、その子供騙しを上回る希死念慮が生まれないことを切に願う。願いながら、意識を落とすためにわたしは睡眠薬を飲む。強制的シャットダウンだ。