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[第13回] ミーツ・ザ・ワールド

最近の私というものは、活力がない。そして死にたい。動けない。死にたい。
実のところ私は双極性障害というものを患っていて、だけど双極性障害というのは最近になってから流通した呼び名であり、またの名を躁鬱病と呼ぶ。ここから先は病気の説明が続くので、面倒くさい人は八百文字足らずほど、そしてその八百文字足らず程というのは分かりやすくいうと塊ひとつぶん、スクロールしてほしい。

……
元々は鬱病と診断されていて、その鬱病という病は恐らく日本人には割とナチュラルに、デフォルトで聴き馴染みのある精神疾患なのではと思うのだけど、まあ簡単に説明すると常に鬱鬱としていて活力がなくなってしまう病気だ。心の病、なんて言われているけれど、それは正解であってあながち正解ではない、正しいのか正しくないのか曖昧なところに位置しているというのは、心の問題であり、その心は脳が作り出しているものであり、実質的に脳の病気であるからだ。
そしてその脳みその病気なんだか心の病気なんだかややこしい病気を患っていた私は数年前にステップアップし無事(無事?)躁鬱へと変化を遂げた。
躁鬱の"鬱"の部分は先の鬱病と特段変わらず、躁というのは難しい事にその真逆、活力が溢れて仕方のない状態の事だ。私も素人なので誤った情報であると申し訳ないが、私の場合、躁に入るととにかくじっとしていられない。というのも物理的にじっとしていられない、という単純明快なものではなく、それもあるけれど、そうじゃない例が例えばベッドに寝転がっていても仕事やプライベート問わず予定のアポを詰めまくる。その時の私が何を思っているかなんて分からないけれど、とにかく勝手で、後先考えられなくて、所謂「その場のノリ」とやらで何かしら大きな決断をしてしまう。そして、散財してしまう。私は根本的に財布の紐が固いタイプなのだが、投資なんかだと特に「どうせ後で返ってくるし」なんて発想で毎日のように何十万もの買い物をする。(昨年夏前) そのツケを払うのは未来の私であり今の私なのだが、とにかく身勝手に予定を立てて身勝手に投資をする。結局鬱で地面に根っこが伸びているような状態の私は仕事に行くし、友人と会うし、クレジットの支払日を迎えるのだ。

ここまで八百文字、一体本題はなんなのだ、というと、とにかく今の私には活力がない。というところに戻ってくる。
昨日、久々に図書室に行った。正確には連れていかれた、連れて行ってもらったというのが正しい表現である。
私は元々本の虫で、活字中毒で、とにかく本が好きな部類の人間だ。どれくらい本が好きかと聞かれると、中学生の頃には本を常に四~五冊持ち歩いて気分によって分けていたもんで、読書タイムになると友人たちが本を借りに来るプチ学級文庫みたいになっていたくらいには本が好きだし、私の中学の授業の大半は本を読んで過ごした。
だけど鬱鬱としている私は、本を読みたいなという薄っすらした願望はあってもそれが叶う事はない。何故なら鬱の症状の一種に、集中力が低下するという症状があるからだ。兎に角集中力が欠けるので、本を読みたいと思っても本を選ぶのが億劫、選んでも開くのが億劫、挙句の果てにはあろうことかその活字の集団がただの集団、スイミーのような大きな塊としての視覚情報でしか脳に入ってこなくなる。なんとかかんとか読もうとしても、同じところをぐるぐるしたり、設定を忘れたり、登場人物がごっちゃになったり、それはまあ酷い有様である。なので、最近は本というものから距離をとっていた。買っても積み上げられていくだけの本たち。可哀相なその本たちは、本棚にも入りきらず、溢れ、言葉のままに積み上げられていた。

そんな中私が手に取ったのは、金原ひとみ著書 ミーツ・ザ・ワールド である。一年前、否、おそらくもっと前。私の拠点がなんとなく和歌山に移っていた時に、今日行ったのと同じ図書室で読みかけて、途中で呼ばれて、泣く泣く後ろ髪を引かれる思いで読むのを諦め、その後誰かに借りていかれたその本はまったく私と巡り会ってくれることなくそのまま時が流れた本だった。結局昨日も集中力は保てなくて半分程しか読めなかったけれど。
簡易的に説明すると、アラサー腐女子と死にたいキャバ嬢がひょんな事から出会い、そのまま同居する話である。何故私がこの本を読もうと思ったかというと、その答えは非常に分かりやすく、金原ひとみの綴る文章、描く世界観が好きだからだ。その歴史は中学生の頃にまで遡るのだが、最初に出会ったのは蛇にピアス。元々映画が好きで知り合い、そして故・蜷川幸雄監督が好きで、そのまま原作に手を伸ばし、ハマった。そしてその後は著者が同じという理由で、また、公民館でたまたま見つけたという理由でアッシュベイビー好きへと道が続く、なかなかヘビーでハードなストーリーが好きな中学生だったのだ。

私は常に死にたかった。初めて死にたいと思ったのは多分十二歳か十三歳の頃で、私が精神疾患という類のものを発症したのと同時期だ。それ以降十五年近く私は常に死にたいと思いながら生きている。
そういえば、noteでも書いた事があるが、「じゃあどうして生きているの」と聞かれた事がある。私は別に生きたいわけじゃないし、どちらかというと死にたいし、なのにどうして生きているのだろうか。それは生きる事を願ったわけじゃなく、死ぬ事を恐れたわけじゃなく、死ぬ為に全力を尽くしたがそれが許されなかったとか、なし崩し的に今も生きているとか、なんとなくとか、取り敢えず一言で表せるわけじゃなかったけれど、なんせ今も私は生きている。そうやって言っている今も、深夜三時五十八分も、死にたい。
ここ最近知り合った友人に、「君が死ぬ事を選択しないようにしたい」と言われた。出会ったばかりなのに、どうして私が生きている事を望むのだろうか。
コイツは嫌に真っ直ぐで、真っ直ぐ過ぎて目を背けたくなるような、眩しくて、眩しすぎて目を細めたくなるようなそんな奴だ。嘘が嫌いで、裏切りが嫌いで、知り合ったばかりの私が何を知っているのだろうとか、まあそれも口だけかもしれないじゃないかとか、そうやって言われてしまうと何も言い返せないのだけれどとにかくそういう奴だと私は思っている。だから、今まで幾度となく浴びてきた「生きろ」という言葉が、コイツからすれば実に本気で放っている言葉なのかというのを感じ取ってしまう。本当、嫌になるくらい。そこが好きで一緒にいるのに、馬鹿馬鹿しいが、私はコイツの好きなところを挙げると素直で率直なところだと答えるだろうし、コイツの嫌いなところを訊ねられれば愚直で真っ直ぐで強すぎる光のせいで影を落とすところだと答えるだろう。

私は何故死にたいのだろう。私には死というものしか待ち構えていない気がするからだった。例えば目の前に置かれた課題・問題から逃げたいという理由であっても、その逃げる手段が私には死しかないような気がする。将来、私が皴が深くなるような歳で生きている気がしない。私に待ち構えているのは老いではなく死な気がする。まあ、そもそも過去の私は私が二十六になるところなんて全く想像していなかったのだから、その時にも同じ事を言うのかもしれないけれど、今の私には将来私は死ぬ運命であるとしか思えない。

ミーツ・ザ・ワールドに出てくる死にたいキャバ嬢、ライは、「私は消えなきゃいけない」「私のあるべき姿は消えてる状態」「私が消失したら、私はようやく私の存在を認められる」「でも、どんなに楽しくても、自分は存在することを演じてるって思う」「私が死んで傷つく人は、私には宇宙人にしか見えない。私が死ぬことの何が悲しいのか理解できない」と語る。そしてそれは、私の心の言語化だった。
私の死にたいはカジュアルで、ナチュラルで、だけど確かに悩みの種はあるのでライとは違うけれど、割とフランクな死にたいだ。でも、生きる事を求められて、死ぬ事が悪だと説かれると、それはなんか違うんじゃないかと思う。
この世の中で、あくまでいち思想として幼い頃から生きる事を尊ぶ様な教育を受けて来て、それはある種洗脳に近い、集団洗脳に近い、ある意味宗教的な「生きる事は素晴らしく、意味のあることだ」「死んだって何も残らない」という発想だと思う。
もしかするとその背景には、敗戦国であるとか、一部に犬死とまで言われた特攻隊の存在があるとか、今の日本とは真逆の「生きて帰る事は恥ずべき事」という思考が過去にあった事も起因しているのかもしれない。

生きる事が尊い事であると考えるのを間違っているとは言わない。だけど、それと同じくらい、否、それよりも強い火力で、死ぬ事が悪い事であると考えるのは間違っていると主張したい。どうして優劣をつけたがるのかも分からないし、死んだらもう生き返る事はできないというけれど、生きていたらその期間を死んでいた事には出来ないのだから、結局同じ事で、表裏一体で、真逆なだけだと思う。別に生だけが特別なわけじゃないと思う。

舞台・幸福王子(2021)に「死って……眠りの兄弟だよね?」というツバメの台詞がある。これは、越冬つばめは存在するものの、王子の側にいる事を選んだ結果冬の寒さに耐えられず死が迫った自身に気が付いたツバメが王子に投げかける言葉だ。
ただこれも誇張表現とか比喩表現とか台詞回しというわけではなく、実際に、海を渡ったその先では死と眠りは兄弟であるという考え方が割とあるらしい。ギリシャ神話に由来するもので、闇と夜が父と母であり、そこから生まれたのが死と眠りらしい。これはきっと日本人の感覚にはあまり理解出来ないだろうというか、死を永遠の眠りとは言うものの、実質的に死と眠り(睡眠)が似た存在であるという考えはないと思う。だから、睡眠をカジュアルに日常で当然の如く受け入れるが、死は受け入れられないのだろうか。私も別に海外で生活した事があるわけではないので実のところは知らないが、日本よりも割と自然に死を受け入れるのだろうか。
だけど日本は死後の世界を仏教で説くのに、死後の世界を羨む人も、カジュアルに県境くらいに考える人もほぼ存在しない。それは何故なのだろうか。結局、世界共通で生きる事は素晴らしいと、2024年では思われているのだろうか。

別に死が素晴らしいものであるとは言わないし強要はしない。
小学生の頃、珍しく小学生らしい本を読んだなと思うダレン・シャンの中に「死してなお、勝利の栄冠に輝かんことを」という言葉があった。ヴァンパイアの中でのモットーというか、指針というか、祈りというか、そういう共通した思想である。ただ我々は人間で、そしてややこしい事に人間の思想は一重ではない。
私は、「死んだら悲しむ人が沢山いる」とよく説かれる。この世界に留まる事を、酷く説得される。だけど、私は私が死んで悲しむ人の事が分からない。それはもしかすると人間がすごく自己中心的な生き物で、自分の世界しか見えていないからなのかもしれないし、単純に私が自分の存在を重要視していないからなのかもしれない。
私は別に誰かの人生に影響を与えているわけではないし、というとそれは誤りだし、私は確かにかかわる全ての人たちの人生に影響を与えているかもしれない。だけど、私が居なくたって別に困りゃしないし、私が居ないなら居ないなりに世界は回るし皆は生きる、と思う。あくまで私レベルの人間の存在価値なんてたかが知れていて、それは人生ゲームを百人でプレイした時の余りの人間ピンが何処かソファの下に転がっていってしまった程度だと思っているだけだ。
それをひねくれていると言う人間は割といるのだけれど、厄介な事に私は自分の思考がひねくれものだという自覚が然程ない。然程ないという事は、一応はあるという意味合いであり、一応はあるというのは「皆はきっとそうは思わないんだろうな」という客観的感想があるだけで自分自身はそうは思わないという意味合いである。私からしてみれば、自分の存在が他者に大きな影響を与えているとか、自分が死ぬ事で誰かが酷く悲しむとか、もっと言えば後を追ってしまうような人がいるだとか、そういう風に考えられるのは自分からとてもかけ離れた存在の脳髄である。脳味噌、という言葉を選ばずに脳髄、という言葉を選んだのは、きっとそういう人たちは根本的にそれ以外の考えがない、言い方を悪くすれば自分達が絶対的に正しいと思い込む、それ以外の事を想像も出来ない傲慢な人達、という事になってしまうのだけれど、私からすればきっとそれは愛されてきた人間の特権とやらで、無償の愛情を受け取った事がある、否、受け取ったと認識出来ている人間だけが抱ける感情で、ある種の本能のような、DNA、遺伝子の様な、最早ゼロ地点で植え付けられている価値観とも言えないようなものだと思うからだ。人間の身体に血管が通っている事を自然に思うように、海が青い事に何ら疑問を抱かないように、人が死んだら人は悲しむと思える人達なのだと思う。それが当然で、当たり前で、それを不思議にさえ思う余地がない。ただ、私はそうではなかった、というだけの話である。

もし私がいつか死んだとして、それが今日なのか、明日なのか、一年後なのか十年後なのか三十年後なのか寿命を全うした時なのかは分からないけれど、もし私がいつかこの世を去る時が来たとして、この文章が残っていたとして、そして運悪く、はたまた、運よくこの文章を誰かが見つけた時に、その人は一体何を思うのだろう。何を感じ、何を思い、どう消化し、昇華するのだろう。何も思わないのか、馬鹿らしいと嗤うのか、後悔をするのか、多分どれにも当てはまらない気がするけれど。
もしも今すぐに無料で安楽死が出来るとするなら私は今すぐに死ぬのだろうか。それとも、その事に安堵してちょっとは行きたい舞台に足を運んでみたり、会いたい人に会ってみたり、今まででは考えられないくらい大胆な行動をとってみたりするのだろうか。ただひとつ言える事は、今の私は死にたい。



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