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1. 日本人はなぜ本音を言わないのか/Why do Japanese people not speak their HONNE?

English follows


はじめに

自分の「あたりまえ」が、他の人の「あたりまえ」ではなく、驚いた経験は、誰しもあると思います。

何故あの人とうまくいかないのか悩んだとき、よくよく観察したり、話をしてみると、実は、自分の「あたりまえ」と、あの人の「あたりまえ」が違っていたからだということにことに気づくことがあります。そして、この「あたりまえ」の違いに気づけば、新たな妥協点や関係性のあり方を見つけることができる可能性がぐっと高まると思います

今、ウクライナとイスラエルで出口が見えない戦争が続いています。また、ロシアとイスラム教国 vs 西側諸国の対立も緊張が高まっています。中国とアメリカの関係が今後どうなるのかも全く分かりません。一方で、私のイスラエル人の友達、英語のオンライレッスンの仲良しのムスリムの先生方、東欧の先生方は、人間味に溢れていて、とても素敵な方々です。

私たちひとりひとりが、自分と相手の「あたりまえ」をお互いに理解することで、よりよい社会に少しづつ迎えるのではと考えています。

このシリーズでは、「日本人のあたりまえ」について、深掘りしていきたいと思います。

第1回目のお題と座談会の参加者

シリーズ第1回目は、「なぜ、日本人は感情や意見を言わないのか」、「なぜ、日本人は嫌いな人に嫌いと言わないのか」について、「ふつうの日本人たち」で座談会をしました。

今回の参加者は、以下の5名です。
T:この座談会のファシリテーター。デザイナー兼大学のデザインの先生。カナダでデザインを学んだ。
E:編集者。書籍だけでなく人も編集することを生業にする。Tと頻繁にプロジェクトをしている。
N:地域の学生や住民と語り合い、地域の伝統を守ることを生業とする。
G:各種アイデアソンに神出鬼没の、自称「ふつうの会社員」。
M(私):このnoteの著者、兼、会社員。小4, 小6の母。

なぜ、日本人は嫌いな人に嫌いと言わないのか

T:今回のテーマは、「日本人はなぜ感情や意見を言わないのか」、「日本人は何故嫌いな人に嫌いと言わないのか」ですが、M、いかがですか?

M:嫌いな人に嫌いという「勇気」がないですよね。あと、もう会わない人にならもしかして「嫌い」と言えるかもしれないけれど、職場の人はしばらくは嫌いでも一緒に仕事を進めていかないといけないから、「嫌い」と言うとやりにくくなりますよね。

N:嫌いって言うことにメリットってあるんですか?

M:でも、好き嫌いをはっきり表明しておくと、その人がずっと同じグループでいる必要はなくなるみたいなこともあったりしますよね。子供のときはそうだったかな。

E:好きの定義が違うかもよ。日本人も、合わないっていうことは言うんじゃない。プロジェクトを進めていくときに、やり方が合わないから外してほしいとか。ビジネスの関係によるのかもしれないけど、面とは向かって言わなくても、上司に言うんじゃない。例えば、私とTは、(一緒によく仕事をするけど)いつもバトルをしているよ。

T:あはは、そうだねー

E:日本人にとって好き嫌いは、京都のぶぶ漬けみたいなものなんじゃない(京都の祇園のお店で食事中にぶぶ漬けを出されると、「もう帰ってください」と暗に言われていると考えられている。詳しくはこちら。)

M:そう、その考えはどこから来たのかってこと。

E:文化がどこから来たかは難しいね。

G:米文化と小麦文化の違いもあるのかなって思う。稲作は、近所の人と仲良く協力しないと、水をあげたりあげなかったりができないから。

M:それは、ChatGPTも言ってた。でも、それは、何百年も前の話だから、何で今でもそうなのかは分からない。

いつから要らないものを要らないと言わずに受け取るようになったか

T:そうだね。ちなみに、何歳くらいから思ってたことを言わなくなった?

E:うーん、私の場合は、多分、3歳だと思う。子供が来たからって言って、雑貨屋のおじちゃんがくれたんですよ。いちご新聞だったんだけど、サンリオが発行してる。忘れもしない。要らなかったから要らないって言ったら、むちゃくちゃ怒られた。要らなくてもでもそれはもらうものなのって言われた。

G:僕は、小学校低学年で、親から言われました。もらっておくもんだよって。Eさんみたいに。建前でもらっておきなさいって。

村八分からの学び

T:僕の場合はですね。カナダに留学していたんですが、そのときに、普通だったらここには止まらないというバスに乗ったときに、「ここに行きたい」ってあらかじめ言っておくと、とても丁寧に教えてくれるということがありました。なので、カナダで「言うといい」ということを学びました。

その後、日本に帰ってきて、学術機関だと言われた◯◯で学んでいたんですね。ある講義の内容について、「その方法論だとおそらく難しいです」みたいなことを言いました。なぜ言ったかというと、それを言わないことによって、皆さんが得られるものが変わるからだろうなと思ったから。で、それをやったことによって私は村八分(自分が住んでいる地域で仲間はずれになること)にあいました

E:それ、私、知ってる。

T:それで、この人たちは議論ができないんだなと認識しました。

E:正しいんじゃない?

T:その後は、ときと場合によって使い分けるようにはなりましたが、少なくとも、あそこで言わないという選択肢は結構なくて、なぜかというと別の先生に、何かあったら言ってねみたいな感じのことを言われていたから。その後は、使い分けができるようになりましたけども、最初からアクセスを踏みすぎると、二部村八分になるということを、体験から学びました。

E:それは、外国人目線に近い体験なんじゃない?

T:だって、他の人たちは、この教授様の言うことは絶対ですって感じのことを言ってるけど、あの人は絶対にやったことないでしょって思う人が言ってる訳ですよ。そこで、プロフェッショナルの観点から言うと、こことこことここはこういう風に改善なんじゃないですかって言ったら、すごい嫌われました。

M:それは、絶対的に間違っていると言った訳じゃなくて、別に私はこう思うからディスカッションしましょうっていうトーンだったんじゃないですか?

T:でもね、そもそもこのやり方が間違ってますって言いました。なぜかというと、こういう理由で、ここによってこれが引っかかるので、こういう風にすると難しいと思いますということを、ご意見として言いました。でも、その論理は受け入れてはいただけず、どちらかというと、準教授様に逆らったということになりました。

E:私は、あとでフラットに話を聞いたら、しっかりした理論の自分の考えがあるっていうことが分かった。逆に、日本人はフラットに見る人が少なくて、流されちゃう傾向があるのかもしれない。

T:うん、特に、権威に流されがち。当時ぺーぺーの僕が言う話なのか、准教授の話なのかで、准教授の方に行く。

それは日本人に固有なのか

M:でも、それは、日本人固有なんですかね。アメリカでもよくありそうな気がするけど。

T:あると思いますよ。ただ、同時にその自分の意見をしっかり言う文化もあるわけじゃないですか。なぜかって言うと、アメリカでは、自分の意見についてエッセイを書かないといけないから。自分の意見はこうで、立場としてはこういうことですっていうのを、高校生とか中学生のうちからインストールされるわけですよね。自分の意見を表明しつつ、相手の意見を受けとめるみたいな文化があります。なぜかというと、多国籍なので、他の人が言ったことをしっかり受け入れてあげないと、国自体が成り立たないから。

感想

本音を言わないのは、小さい頃の親からの教えから来ているというのは、新たな発見でした。また、Tさんの村八分体験は、温和なTさんを知る私にとっては衝撃でしたが、一方で、同じような経験をされた方も一定数いらっしゃるのではないかと思います。
そんなことを考えていると、おもしろいYouTubeを見つけたので、次回以降でその感想も書いていきたいと思います(建前はアメリカにも存在する!|ネイティブ同士の英会話/アーサー(IU-Connect))。