短編小説 「クズな男 (香水)」
「ん? 何でこんな事になっているんだっけ?」 男は自分の置かれている状況に首を傾げた。
金曜の夕方の納期に追われた慌ただしい最中だった。予期せぬ相手から、LINEでメッセージが来た。
「お久しぶりです。清田さん、今夜空いてます?」
メッセージの主は、一年前会社を辞めていった後輩の真名川華香からだった。新入社員として入り、直属の部下として2年ほど面倒を見た。決して仕事ができるという訳ではなかったが、可愛い容姿と元気良い振る舞いから、周りの社員、特に男性社員からは人気があった。
清田自身も同様に部下として、そして女性としても華香を気に入っていた。一昔前ならば、上司と言う立場を利用して、飯に誘うなどしていたのかもしれないが、目を見つめただけで訴えられかねない現在のご時世では、そんな事などできるはずもなく、あくまでも一社員として接した。会社を辞める際には社交辞令で連絡先を交換していたのだが、このメッセージが来るまですっかり忘れていた。
「11時頃になっちゃいそうだけど、大丈夫?」
遅めの時間指定では了承の返事は無いだろうと半ば断るつもりで送ったのだが、「全然大丈夫ですよ。渋谷の駅付近で待ってますね」とすぐに華香から返事が来た。予想外の返事に戸惑う清田は、時計を見るや否や時間を逆算し、急ぎで残りの仕事に取り掛かった。
駅の時計は十一時を示していた。辺りにはこれから飲みに行く人々と帰る人々が交差している。少し乱れた息を整え、連絡をすると華香が現れた。働いてた頃よりも髪が伸び、どこか服装も大人っぽくなっていた。
「お、おう。久しぶり。腹減ってる?」 どこか動揺した口調で清田は聞いた。
「先輩にお任せします」と、華香は昔通りの屈託の無い笑顔で答えた。
センター街から少し離れた洋食が豊富な店へと入った。意図した訳では無かったが、金曜の夜という事もあってか、店内にはカップルの姿が多かった。その為、始めは妙な気まずさもあったが、飲みながら華香の今の仕事環境や、こちらの同僚の近況などを話していくうちに、すぐにあの頃の上司と部下の関係に戻っていった。
待ち合わせた時間が遅かったせいもあるが、気がつくと既に終電の時間はとうに過ぎていた。
「わりぃ。終電、もう無いよな。タクシー代だすよ。どこだっけ今住んでるとこ?」
華香は少し俯き、無言で考えている。その様子を見た清田は慌て、「ち、ちがうぞ。お前ん家に行きたいとか言ってるんじゃないからな」と弁解する。
華香はくすりと笑い、「そんな風に思ってなんかないですよ。えっと、タクシー代勿体ないですし、先輩が良かったら、もう少し…カラオケとか行きません?」
「はっ? カラオケ?」 思ってもいない展開に、清田の声は思わず上ずった。
清田はカラオケ店のトイレの鏡の前で自身を見つめながら、「ん? 何でこんな事になっているんだっけ?」 と首を傾げた。
鏡の自分に向かい、「単なる元上司と元部下がカラオケに来ているだけだ。それ以上も、それ以下も無い」と『パルプ・フィクション』のジョン・トラボルタを思い出しながら、自信に言い聞かせた。手にしているスマホを少し見つめ、スーツに仕舞うと、トイレを出た。
部屋には注文したドリンクが既に置かれ、華香は一曲目を楽しそうに歌っていた。清田も上手い方ではなかったが、歌うこと自体は嫌いでなかったので、好きな懐メロを入れ、歌った。二人とも何かを発散するように歌い続けた。
華香が選ぶ歌は最近のものが多く清田が知らない歌だったが、華香が歌う姿を見るだけで、自然と清田は笑顔になった。それと同時に華香と共に働いていた頃を思い出し、その頃部下だからと封じていた想いが自然と溢れだしていった。
お互い溜めていた選曲も無くなり、部屋の中が静まり返る。華香が次の曲を選んでいる時だった。終電過ぎのカラオケに男女二人という状況に、あの頃気になっていたという想いが重なって、清田は思わずそれを口にした。
「俺の事どう思ってた?」
突然の発言に華香は動きを止め、戸惑う表情を見せた後、清田の方は向かず、はにかみながら、「そういうことしちゃいけないの分かってたけど、好きでしたよ」と答た。
清田は隣にいる華香の肩を引き寄せ、軽く唇を重ねた。
沈黙が続いた後、華香は立ち上がり、「知ってますこの曲? 最近好きなんですよね」とまた歌い始める。
「香水」
サブスクなどで聞いた事はあったが、しっかりと聞くのは初めてだった。別れた彼女へ向けた歌だった。初めはこちらへの想いを歌ってくれているのかと思い聞いていたが、歌う華香の表情に清田は眉をしかめ、考えが間違いだと気づいた。華香からはいつもの笑顔は消え、涙を流しながら歌っていた。
その涙から全ては勘違いだったのだと、清田は悟った。この曲の想いをぶつけたい対象はこちらでは無く、現在の彼、または元彼なのだと。そして、俺は慰め相手として今日呼ばれたのだと。
そんな相手として選ぶなよ、と心の中で呟き、また先程の自身の行動を激しく後悔した。
カラオケ店を出ると、空が白み始めていた。
「先輩、今日はありがとうございました」 と華香はいつも通りの笑顔で言う。
清田は言いたい事は全ては飲み込み、「また、いつでも連絡くれよ」と笑顔で返した。
清田は意図せず振られた感覚を噛み締めながら始発電車に揺られ、家路についた。疲れ果てた様子で鍵を取りだし、扉を開ける瞬間に何かを思い出し動きを止めた。胸ポケットから急いで財布を取り出すと、小銭入れの中を探った。小銭入れから、指輪を取りだす。清田はそれをしっかりと薬指に嵌め、家の中へと静かに入っていく。
閉まった扉の外には華香の香りが残っていた。
おわり